【6月22日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2024 vol.11
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は6月22日に行われる2024明治安田J2リーグ第21節、鹿児島ユナイテッドFC vs 大分トリニータのマッチデープログラムです。


日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2024年6月15日(土)2024明治安田J2リーグ第20節
vs モンテディオ山形 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
6月12日に天皇杯2回戦を大分トリニータと対戦し、0-1で敗戦してから3日後、ホームで迎えたモンテディオ山形戦。
序盤は正確にボールをつなぐ山形がチャンスを作る。
10分のシュートはポストに当たって跳ね返ったところを泉森涼太がキャッチ。
13分に裏へ抜け出られるがシュートは枠を外れる。
しかし26分、ペナルティエリアで粘られ、戻されたボールを強烈なミドルシュートで決められ、山形に先制される。
右サイドに入った圓道将良も含めてチャンスを作りながら迎えた44分、ボランチの藤村慶太が左サイドに送ったボールを福田望久斗がおさめて、中央へ切り込みながら打ったシュートは枠の上を外れる。
後半に入った51分、ペナルティエリア内でシュートを打たれるが、広瀬健太がブロックに入り、残されたコースを読んで反応した泉森がセーブする。
56分、左サイドで福田が粘って上げたクロスを逆サイドから圓道が飛び込むが、わずかに外れる。
直後にGKのクリアを藤村経由でおさめた圓道がドリブルからゴール前にボールを送るが、クリアされる。
さらに山形にミドルシュート、裏に抜けられての1対1などピンチの場面を作られるが鹿児島は追加点を許さない。
80分、岡本將成から左サイドバックの外山凌にパスが渡り、すばやく外山がゴール前のスペースに入れたクロスに、有田光希が頭で合わせて同点に追いつく。
92分、泉森のロングキックを有田がそらし、河辺俊太郎が右サイドでボールをキープ。
内側を追い越した野嶽寛也がドリブルで突破を試みたところをファウルで倒され、FKを獲得する。
93分、そのFKを千布一輝が大きく縦に落ちるボールでゴール前に入れ、山形守備の網目に飛び込むように入ってきた井林章が、滞空時間の長い跳躍からヘディングを叩き込んで逆転。
最後まで身体を張った守備で2−1と逆転勝利を得た。

浅野哲也 監督コメント(6月18日トレーニング後の記者会見より抜粋)

前節、結果は良かったのですが、内容的には厳しいものでした。
大分戦に向けてどれだけ修正できるかはわかりませんが、取り組んでいきたいです。
ちょっと緩みが出ると、寄せられるところで寄せられず、シュートを打てるところで打てません。
そこで妥協することなく、失敗してもいいから挑戦するほうが良いと思います。
シュートを打って外れてもブロックされても次があります。
寄せるところでも、今までより半歩寄せることで相手のシュートが枠から外れることがありますので、練習から体現して欲しいです。
全体練習後の自主練を見て感じたこと
大体がゴールに直結する練習をしています。
ただノープレッシャーでやっていることが多く、当然感覚的なものを養うのはいいのですが、ゲームで出せるかは本人次第です。
特にゴール前で冷静さを出して欲しいです。
山口卓己選手への期待
彼はボランチとして攻守においてスイッチを入れる役割があります。
良い予測から良いアプローチ、寄せのはやさが彼の良さですし、どれだけでも走り切ることができます。
もちろんプレーで引っ張って欲しいですし、遠慮しているところがあるのかもしれませんが、ボランチが声を出していかないとチームが締まっていきません。
これは藤村(慶太)たちも含めて、最終ラインも含めて、試合でどれだけ後ろから味方全体を動かせるかが大切です。
キャプテンマークを巻いているからというだけでなく、全体を動かしていって欲しいです。
大分トリニータ戦に向けて
大分はハードワークしますし、片野坂監督は勝つためのこだわりが強い監督です。
今年2回負けていて、今回はホームでやれるので当然勝ち点3を取りたいです。
連勝とかは関係なく、眼の前のゲームで勝ち点3を取るために準備をしたいです。
外山凌 選手コメント(6月18日トレーニング後の記者会見より抜粋)

前節、内容としては山形さんの方にチャンスがありました。
ただ僕たちもこれまで負けることが多かったですが、勝っても不思議でない試合もありました。
そういう意味で勝負の分からなさを感じた試合でした。
ちょっとした勝負の分かれ目で思い切ってクロスを入れることや、終盤に勢いを持ってゴール前に飛び込むこと、これからはもっと大胆なプレーを出していきたいです。
監督が変わった影響
やっぱり鹿児島ユナイテッドFCというチームは伝統的にボールを大事に、組織的に向かうことに長けています。
そこに半歩寄せること、相手にやらせない気持ちで劣るところはありましたが、それを浅野監督が植え付けています。
選手の意識面での変化
監督も変わってみんなフレッシュです。
みんな今出ている出れていないに関わらず、自分が試合に出たいという想いをピッチで表現できています。
その切磋琢磨の姿勢が出せています。
大分戦に向けて
どこが相手でどう戦うとかではありません。
まず鹿児島のスタイルを出しながら、アクセントとして大胆にゴールを意識したクロスやシュートといった、監督が求めているものをピッチで出せればと思います。
山口卓己 選手コメント(6月18日トレーニング後の記者会見より抜粋)

自分たちはゴールに向かうサッカーなので、そのなかでクロスや得点につながるところを向上させていく必要を感じています。
そうやってゴールを増やしていくことを意識して練習しています。
攻守において意識すること
ボランチなので守備として最後のところで足を出せるか、攻撃でも最後のところでどれだけ顔を出せるかが大事になってきます。
そこはもっと突き詰めていかないといけないと思います。
監督が変わった影響
自分たちがやるサッカーは変わりません。
そのなかでより一歩、守備の強度を上げることが変わったと思います。
ゲームキャプテンを務めていること
キャプテンマークを巻いていても巻かなくてもやることは変わりませんが、巻くことで気持ちがもう一歩後押しされるところがあります。
そういう意味で、自分がチームを引っ張る意識が出てきています。
大分戦に向けて
相手がどう出てくるかはわかりませんが、自分たちがやることは変わりません。
前からでもどんどん圧力をかけて、攻撃でも積極的にシュートを打って得点につなげる。
守備では身体を張って全員でゼロで抑えられるようにしたいです。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.30(Total vol.42)」
新中剛史さん(都城東高校 スポーツ振興室 室長、普通科スポーツコース コース長、サッカー部監督)

「たくみー、おー、たくみー、やまぐち、たくみー」
鹿児島にとってすっかりおなじみになった山口卓己選手のチャントです。
それをスタンドで、どのような気持ちで聴いているのでしょう?
「びっくりしましたよ。僕も知らないで最初聴いて“あ、いっしょやん”って思って。でも僕の1回で終わりじゃなくて引き継がれているっていいなあって思っていて。それから息子も僕のチャントを知っていたので“パパといっしょだ”みたいに喜んで。それで応援しているみたいなところ、ありますよ。山口くん、がんばって欲しいですねえ」
ボランチとサイドハーフでポジションは異なりますが、とにかく走って闘って、それからゴールへの嗅覚があってやや小柄なほうで…と共通点は色々とあります。
何より現役時代、同じ原曲のチャントで応援されていていました。
「つよしー、おー、つよしー、しんちゅう、つよしー」
ポロシャツにハーフパンツの格好で登場した新中剛史先生は、みずから案内してくれた教室で、前の椅子に座って話はじめました。
現役時代から変わらない体型と現役時代から変わらない笑顔で。
J2ファジアーノ岡山へ
霧島市隼人町出身の新中さんは鹿児島城西高校出身。
鹿児島実業高校に追いつけ追い越せの高校時代を経て、できたばかりのびわこ成蹊スポーツ大学に入りました。
今では日本屈指の強豪大学として知られていますが、新中さんは3期生という新興勢力でした。
「でも1期生に大阪体育大学を辞めてサーフショップとかで働いてもう1回サッカーやりたいってそこからヴィッセル神戸とかで活躍した近藤岳登さんがいてかなり衝撃受けましたね。簡単に諦めない気持ちを得ました」
4年生になった新中さんにプロからのオファーはありませんでした。
それでも当時いくつかのJクラブが行っていたセレクションに参加して、「あれはクラブが運営資金を稼ぐためにやっているだけのもの」と言われることもありましたが、わずかなチャンスにかけます。
そして願いは叶う。

Jリーグ入会を決めたばかりのファジアーノ岡山が、選手育成を目的にしたチーム「ネクスト」を立ち上げるために大卒選手を積極的に採っていたこともあり、新中さんはJ2岡山でプロサッカー選手としての第一歩を踏み出すことになったのです。
ところがシーズン前の段階で負傷してしまい、約4カ月のブランクを経て復帰した新中さんに、松本山雅FCへの期限付き移籍の話が訪れます。
「当時のネクストは岡山県リーグで、それより山雅はツエーゲン金沢とかAC長野パルセイロとか最近話題になったJAPANサッカーカレッジとかがいて“地獄の北信越リーグ”と呼ばれる激戦区だったので。そこで地域決勝に出て欲しいと言われていたので、それならばと」
思うような出場機会を得ることはできませんでしたが、チームはホームスタジアムでJFL昇格を果たし、ドキュメンタリー映画「クラシコ」として語り継がれる闘いを経験して、新中さんは岡山に帰還します。

翌2010シーズン、2年目の新中さんは念願のJリーグデビューを果たします。
「今はJFAで技術委員長をしている影山(雅永)さんが監督で、11試合に出場したんですけど、そこで夏の移籍期間を前にした試合で怪我をしてしまって、そこからネクストになって…。ただ影山さんでなければJデビューできていなかったと思うのでとても感謝しています」
2012シーズン、中国社会人リーグを闘うネクストは全国社会人サッカー選手権大会で2位になり、JFL昇格をかけた全国地域リーグ決勝大会に出場。
1次ラウンドでは城西高校の先輩、田上裕選手兼監督率いるFC KAGOSHIMAと対戦し、3-0で勝利するなど躍進しますがJFL昇格は果たせず。
そして2013シーズン、U-18からは千布一輝のような有望株も加わり、年長組になっていた新中さんたちネクストは中国社会人リーグを優勝します。
その指揮官は牧内辰也さん。
今シーズンから鹿児島のアカデミーダイレクターを務めています。

「この前、試合会場で会ってすごく嬉しかったですよ。指導者として牧内さんは“怒鳴り散らしても伝わらないでしょう”って穏やかに言うタイプ。もちろん本当に良くない時は怒るんですけど、基本は悟ってるタイプ。だから僕ともう1人同期の西原(誉志さん、現岡山アカデミーダイレクター)と2人が強く言う役で、食事に連れてって“こんなチャンスのある環境ないぞ、がんばれよ”って泣きながら説教したり。そこに千布もいたんじゃないかな」
2度目の挑戦となった地決でネクストは鹿児島から2クラブ参加していたFC KAGOSHIMAとヴォルカ鹿児島に勝利して、2位でJFL昇格を達成します。
「ホッとしましたよね。最後のヴォルカ戦は累積警告で出場停止だったから、これで負けたらやばいなって。でも他の選手たちが決めてくれたから本当にホッとしました」

プロ選手として契約して、J2の舞台での出場機会はなかなか得られない中でも、育成チームをJFLという舞台まで引き上げることはできた。
一方でシーズン終了後の契約更新の席で、新中さんは鹿児島への思いを率直に伝えました。
「岡山ってキャンプの時は全員フラットに競争して、そこからトップに残る選手とネクストに行く選手に分けられるんです。ネクストに行くことになった時のモチベーションは本当にエグいんですけど笑。それで強化部にもう来年28歳になるし、もちろん春のキャンプは全力でやるけど、それでもトップに残れなかったら鹿児島に行くという選択肢も考えてもらっていいですか、と伝えて」
キャンプを経て、新中さんの2014シーズンはトップではなくネクストに。
トップに残れなかった悔しさは当然ありますが、そのなかでも新中さんはネクストの中心選手として試合に出続けて、1stステージ(前期)12試合3得点の結果を残します。
そして2ndステージ(後期)が開幕した直後、鹿児島ユナイテッドFCへの期限付き移籍が発表されました。
そして鹿児島へ
岡山では5年半に渡ってプレーしていた新中さん。
もちろん岡山への感謝の気持ちと愛情が尽きることはありませんが、同時に故郷鹿児島が本気でJリーグへの道を進んでいることは気になっていましたし、自分もそこで闘いたいという想いは強いものがありました。
「昔から鹿児島でJリーグの試合を観ると言えば横浜フリューゲルスが来るか、京都パープルサンガが来るか、それくらいだったので。もちろん合併するしないとか鹿児島のニュースも見ていましたし、城西出身のタノさんや(谷口)堅三、(内薗)大貴、それから同じ霧島出身の(前田)将大もいたし。(赤尾)公とは鳥取時代に何回か練習試合していて知っていたし。それでもう自分も28歳になるし、選手生活の最後、そこに貢献したいなっていう思いがありました」
いざ合流して最初の練習に参加すると、知らない選手ばかりなのでとりあえず全員に敬語であいさつ笑
それでも練習がはじまると、田上赤尾たちが次々といじってくれてすぐにチームに溶け込めたのでした。
そして迎えた鹿児島でのデビュー戦。

2連敗中の苦しい鹿児島が迎えた対戦相手は…ファジアーノ岡山ネクスト。
先日のモンテディオ山形戦で田中渉選手が所属元相手なので試合には出られなかったように、通常であれば所属元のクラブとの試合では出場できない契約がほとんどなのですが、この時そのような条項はなく、新中さんはスタメンで出場します。
開始直後に先制され、新中さんのアシストで山田裕也が同点ゴール。
ところが終盤に勝ち越しゴールを許して3連敗。
それでも次のホンダロックSC戦では新中さんもゴールを決めるなど、4-1で勝利して苦しい連敗を脱出。
そこから鹿児島は粘り強く闘い、勝点を積み重ね、最後10試合を7勝2分1敗の3位でシーズンを終えます。
新中さんも加入してからの全11試合に出場して2得点と個人としての結果を残しました。

ただ、順位に関わらずJ3ライセンスを取得できていなかった鹿児島がJリーグ入りができないことは、新中さんもあらかじめ察していたうえでの加入でした。
「それはその時次第だよな、と。とにかく順位をできるだけ高いところで終えて、上がれるにしても上がれないにしても県民の機運を高めることが自分の任務だと感じていたので。ただ鹿児島の盛り上がりにはびっくりしましたよ。お客さんも多かったし、メディアもめちゃくちゃ取り上げてくれるし。なんかみんなで機運を盛り上げようとしてくれているのがすごく伝わってきていました」
岡山と鹿児島の双方で充実したシーズンを送った新中さんは、そのまま鹿児島への完全移籍を決意して、岡山との契約更新を前にその意思を伝えました。
「だから岡山からの契約満了っていう形ではなくて。それで岡山も分かってくれているじゃないですか。僕の年齢もそうだし、地元でやりたいっていう気持ちも。前の年にネクストをJFLにあげていて、最低限の責任は果たせたと思うし、円満だったと思います」
その言葉通りに新中さんは岡山のJ2リーグが終わった12月、ファン感謝祭にもみずから参加してファンに対するあいさつもして、岡山でのキャリアを終えました。
「めっちゃ良いクラブでした。西原が骨を埋めたいっていうのが分かります」
鹿児島のJリーグ入り

正式に鹿児島ユナイテッドFCの一員として迎えた2015シーズン。
背番号を11に変えた新中さんは、第2節で決勝ゴールを決めますが、それ以降は負傷の影響もあり、なかなかピッチで活躍することができず。
チームもなんとか最低条件である4位以上をキープしている状況。
そういう時期を踏まえてこのシーズンから指揮を取る浅野哲也新監督をどのように見ていたのでしょう?
「テツさんは人としてもむちゃくちゃいい人ですよ。それで今もおっしゃっているけど守備から入る印象。それで選手ってみんなそうでしょうけど自分が出れていない時は“なんで出さないんだよ”って感じでしたけど。でも(内薗)大貴もそうだったけど、来るべきチャンスに備えて腐らずに“絶対に見返してやる”って気持ちでやっていました」
2ndステージ8節、Jリーグ入りの4位以上を争うFC大阪との直接対決。
後半立ち上がりにPKのピンチを植田峻佑選手が止めて、直後に赤尾のフリーキックを田中秀人さんがヘディングで合わせて先制。
直後に左サイドへ投入された新中さんは、高い位置でボールを奪うとそのまま独走して、GKの脇を抜くシュートで追加点を決めて、まさに浅野監督が常々口にする「良い守備からの良い攻撃」を、もっとも直截的に表現する形でチームを勝利に導きます。

その次のHonda FC戦に敗れた後のヴァンラーレ八戸戦には左サイド田上裕、右サイド新中剛史がスタメン出場して、以降はこの形で闘い続け、4位を確定し、Jリーグ入りを勝ち取ります。
すべてが確定していて迎えたJFL最終節のFCマルヤス岡崎戦では、鹿児島県立鴨池陸上競技場に8,656名のサポーターが訪れます。
県外のプロ野球やJリーグやアーティストのライブではない鹿児島の試合でスタンドが埋まった景色は、新中さんにとっても感慨深いものでした。

先制点のアシストも新中さん。
「あれテレビの解説は遠藤(彰弘)さんでしたかね?もっと褒めてくれよって思いましたよ笑。けっこうゴールラインぎりぎりのところを追いついて人生ベストくらいのクロスを入れましたから。それで“これは決まるやろ”と思ったら中央で山田(裕也)がさわれなくて。うそだろと思ったらタノさんがヘディングで押し込んで、“持ってるな”って思いましたよ。それでこういうところでタノさんを使うのもテツさんの人柄が見える気がしますよね。この日は笑顔じゃない人がいなかったし、めちゃくちゃ晴れていたし、単純に最高のお祝いでした」

現役最後の2016シーズン
晴れてJリーグに返り咲いた新中さん。
J3開幕戦のカターレ富山戦ではチャンスを決めることができずに悔しい思いをして、第2節では大分トリニータを迎えます。
「ゴール裏にすごく入っていましたもんね。それで円陣を組む時に(赤尾)公と“これがJリーグだな、やったと来たな”って話したのを覚えています」
開幕2試合にスタメン出場した新中さんでしたが、大分戦では負傷して途中交代で退き、その後も負傷に苦しみ、徐々に出場機会を減らします。

両サイドは永畑祐樹&五領淳樹の神村学園コンビが中心となり、出場するのは田上とともに後半の途中から。
鹿児島は上位争いを繰り広げますが、9月末、Jリーグ初となるJ2クラブライセンスの不交付が発表されました。
成績に関わらず昇格できないなかでも浅野監督率いる選手たちは、そしてサポーターたちも含めてみんながピッチ内外で力を尽くします。
全30節を終えて15チーム中5位。
シーズン終了後、新中さんに告げられたのは契約満了でした。
「正直残れると思っていたんですけど。でも怪我のこととか年齢のこととか考えての判断であれば分からないではありません」
シーズン終了後のファン感謝祭では号泣しながらサポーターへの感謝を伝えました。
「根拠はないんですけど33歳まではやりたかったんです。それくらいまでなら身体は動くだろうと思っていたので。もっとプレーしたかったし、鹿児島のために貢献したかったし、それができなくて悔しくて」

新中さんはこのシーズン18試合0得点。
ファジアーノ岡山での11試合を合わせて29試合出場。
実は得点に大きく迫った場面はありました。
第23節のFC東京U-23戦ではこぼれたボールを押し込んだところ、オフサイドの判定。
先輩田上は審判に抗議してくれましたが、新中さんは「オフサイドかもしれないと思いながら打ったので、やっぱりでした」。

そして語り草になっているのが第26節のSC相模原戦。
スルーパスに抜け出した新中さんは元日本代表GK川口能活さんをかわして、後は押し込むだけの形になり「ついに決められる」と思いきや…背後から出現した藤本憲明選手があっさりと押し込んで…得点者になった藤本選手は新中さんに土下座のゴールパフォーマンス。
「僕もドリブルが大きくなりすぎたので、自分で決められたかは分かりませんけどね。それを確実に決めてくれたノリはやっぱり”持っていると思います”。でもやっぱりJリーグで点取りたかったですね苦笑」
シーズンが終わってからのとある全体練習終わり。
ストレッチのタイミングで新中さんは同じ霧島市出身の五領選手と話をしました。
「ひょっとしたら淳樹は同じように空いた10番を着けたかったのかもしれないですけど笑。ストレッチをしながら“俺の11番、霧島出身として引き継いでくれないか”って話をしたら、あいつ察してくれていたんですかね。すぐに“分かりました。がんばります”って言ってくれたんです。僕その時、めっちゃ涙出そうでした。がんばって欲しい気持ちと、自分はもう鹿児島でプレーできない気持ちが混じって、こんなに切ないんだって、あんな感情初めてでした。ただ背番号を引き継ぐだけの話だったのに」
その新しい背番号11は2017シーズンの開幕戦でさっそくゴールを決め、両親指で背中の11番を指差すパフォーマンスを披露しました。

ユナイテッドでのセカンドキャリア
退団後もトライアウトを受けて次のチームを探していた新中さんですが、結局年末まで所属先が決まることはなく、そのタイミングで現役引退を決意しました。
2度のJFL昇格、Jリーグ入りの経験がある新中さんだから、年明けまで粘れば本気でJリーグ入りを目指すクラブからの話は来たかもしれません。
それでも年齢的なところや鹿児島への想いなどが重なり、ユナイテッド初代監督の大久保毅さんからの「スクールコーチをして欲しい」という話を受けることにしたのです。
同じように現役を引退した初代背番号10山本啓人さんとともに、指導者としてのキャリアを歩み始めました。

統括するのは森長直彬スクールマスター。
「あいつすごいなって思っていました。彼自身には選手経験がなくて、でも指導者としてのし上がっていきたいって目標があって。スクール運営でもすごく効率が良くて、生徒も増やしていって、年下ですけど“賢いなあ”って勉強になりました」
スクールは県内各地で展開しています。
なかでも水曜日は朝暗いうちに霧島の家を出て、南さつま市で幼稚園の巡回指導をして、課外活動としての運動教室も行い、通常のスクールも幼児、小学生、中学生まで当時はクラスがあって、中学生クラスを終えるのは21時という、これぞハードワーク。
もちろん指導だけではなく保護者とも月謝のやりとりがあるし、スクールの実施場所を予約する業務もありますし、道具の管理も自分たちでします。

「選手時代とのギャップはもちろんありましたよ。ただスクールコーチになった自分の“元プロ”って肩書きも使える期限があるからそれは使えるうちに使ったほうがいいと思っていたし、それでスクール生が増えるんだったらいいことだって思いながらやっていました」
技術の面ではしっかりとした指導をして。
同時に幼児向けにはポケモンのイラストをコーンに貼って、そこをめがけて「モンスターボール」を投げたり蹴ったりするポケモンごっこをやったり。
色々な工夫をした1年でした。
「その頃の子どもが今、クラブチームでがんばっていて、めっちゃ感動しました」

2018シーズン、まだスクールコーチ1年目を終えたばかりの新中さんに「U-18監督」という仕事が舞い込みます。
U-18を立ち上げた監督兼アカデミーダイレクターの大久保さんが、鹿児島県サッカー協会の指導者養成にたずさわることになり、後任として新米指導者の新中さんが指名されたのです。
「実はありうるとは思っていて。現場の指導のこともですけど、チームのマネジメントとか、保護者との対応とか、全体的にがんばるところとか、そういうのを考えてですね」
2月から正式にU-18監督に着任して、最初の仕事が県3部から2部への昇格をかけた大会。
1試合目を苦戦しますが、しっかりと新中さんに喝を入れられた選手たちが結果を出して、無事に県2部昇格を果たします。
そして本格的に2018シーズンを迎えると、キャプテン野嶽寛也が躍動します。
「あいつは絶対プロでやれるわって思ってました。なんでもできましたし」
苦戦した試合もありましたが、県2部への昇格1年目で優勝とともに、県1部へ昇格。
野嶽選手は得点王とアシスト王も含めた3冠に輝き、夏場にはトップチーム2種登録されるとともに、2019シーズンからのトップ昇格も決まりました。
県1部リーグ昇格1年目の2019シーズンも上位争いを続けます。
また9月末にはJユースカップとしてジェフ千葉と鴨池で対戦して、延長戦までもつれる熱戦を繰り広げるなど、U-18は着実に存在感を高めていました。
ユナイテッドでのキャリアの終わり
ところが2020シーズン、新中監督率いるU-18はなかなか勝ちを得られず、最終的に1勝もできない苦しいシーズンを送ることになります。
そんななかでも希望となったのは1年生の武星弥選手。
U-15時代は中盤での起用が中心でしたが、新中監督はFWとして起用し続けました。
「もう1年生のころからトップ昇格させることは意識していました。あの頃シュートを外しすぎて泣くほど悔しい思いをしていたし、周りからの目線もあったかもしれません。だから1年生だし先輩のこととか気にするだろうけど場数を踏ませるしかなかったので、僕は“周りは色々言うかもしれないけど、一本入ったらあとはどんどん決まるようになるから、外してもいいからまず打とう、一本決めよう”って伝えていました。正直トップ昇格できるかどうかは微妙なところだと思っていたけど、他の選手に比べれば可能性はあると思ったので、できるだけ試合に出そうと思っていましたね」
2024シーズンの現在からすれば、この時の新中監督の判断は正しかったというしかないでしょう。

そしてもう1人、中学3年生ながら素質を見込まれてU-18に飛び級昇格していたのが小島凛士郎選手でした。
「中学3年生とか関係ないって思っていたので、中盤の柱としてプレーできるんだから背番号も7の良い番号を渡して、本人に意識してもらおうと思って。ひょっとしたら凛士郎のなかでは先輩たちにもっとやって欲しいって想いがあったのかもしれないけど、そうじゃなくて俺が引っ張るんだって気持ちでいって欲しくて。それでプレッシャーで潰れるタイプには思えなかったので、どんどん試合で使って経験積ませたほうがいいやと」
実際にこのシーズン9月、小島選手はトップチームでプレーできる2種登録をされて話題になります。
「だったらリーグ戦で使えよって思いましたけど。それから(野嶽)寛也も試合に出たら絶対にやれるやつだからもっと使って欲しいって思ってましたけどね。プロの世界だからしょうがないけど、凛士郎があのころに1試合でも出られたら激アツでしたよね。でもクラブとして期待しているのは分かっていましたけど、それで自分の起用するしないの判断が変わることはなかったです。調子に乗っていたらメンバーから外そうとは思っていましたけど、そういうタイプじゃなかったし謙虚な選手でした」

未来につながる種がまかれた2020シーズンのU-18でしたが、シーズンが終わって、新中さんはクラブを離れる決断を下します。
先のことはまだ決まっていませんでした。
高校で働きながらのサッカー漬け
当時は左官屋をして生計を立てながらサッカーの指導者としての場所を模索する日々。
鹿児島県内からも、県外の強豪からも指導者として誘いがありました。
色々な可能性を考える中で、かつてお世話になった英語教師を通じてもらった話が都城東高校でした。
「それも県外」ではありますが、新中さんが現役時代から暮らしている霧島市からは車で約1時間のところであり、現役時代も県内各地のグラウンドを転々としていた新中さんにとっては「通勤圏内」でした。
2021年度から務め、4年目を迎えた現在、名刺には「スポーツ振興室 室長」「普通科スポーツコース コース長」「サッカー部監督」の役職が記されています。

「むっちゃ忙しいですね。部活の練習に出られない時もあるんですけど、やっぱり業務があっての部活なので。あとうちの高校は生徒がどんどん増えてきてくれていて、今年も募集よりも多い生徒が入学してくれて。それで色々と課題も出てきていますけど、対策を考えるのも楽しいですよ」
ただサッカー部を勝たせればいい、という思考ではなく学校全体が良い方向に向かうために力を尽くす新中先生。
すれ違う生徒たちから次々とあいさつをされ、よく通る声で「おはよう」と返す姿はすっかり高校の先生です。
サッカー部の部員も最初は試合できるぎりぎりくらいの人数だったのが、50名近くまで増えました。
「でもまだまだです。地区リーグ前期で都城高校に負けたんですけど、その都城が入れ替え戦では日章学園の4thに負けてますから。これが現実です」
とはいえこれくらいで新中さんの心が折れることはありません。
現役時代から決してエリートとは言えない道でも諦めることなく進んできた新中さんです。
たとえば「3年でプリンスリーグ昇格!」みたいな派手な目標を打ちあげるのではなく、都城東高校はこれから新中さんとともに、着実に成長を続けていくことでしょう。
「僕は多分ずっとこの仕事をすることになると思います。でも指導者が現場で力を発揮するだけで勝てるわけではありません。僕自身は総監督として全体を管理したり環境を整えたり、いい選手をスカウトしてくるような立場も向いていると思っていますし、その上で現場で勝たせられる監督を支えていく方向に持っていけたらと思っています」
高校で働く一方で、試合がないときは原則休みとなる日曜日は鹿児島県社会人リーグの霧島レッズで選手としてプレーを続けていますし、息子さんのサッカーも観に行きます。
クラブチームに所属する前に息子さんは元チームメイトの西岡謙太、U-18時代の教え子である緒方隼や藤田翔輝が指導するユナイテッドの霧島スクールに通っていましたし、レジェンドマッチや交流試合が行われる時は顔を出しますし、2023シーズンの「シャレン!で献血」では城西高校の同級生西田剛さんとゲストとして参加しましたし、今でも機会があれば鴨池でホームゲーム観戦をしますし、モンテディオ山形戦もビール片手に勝利を見届けましたし、ユナイテッドは特別な存在であり続けています。
チャントが同じ山口選手はやっぱり気になるし、野嶽、武、小島の3選手は監督がシーズン中に変わるというプロらしい試練の今にどう適応していくのか注目しています。
移籍加入した昨シーズンから背番号7を着けるかつてのチームメイトは「その番号は永久欠番でもおかしくない番号なんだからがんばれよ、って言ったら“そうなんですね、がんばります”って軽い感じでしたけど」と笑いながらも、山形戦で決勝点をアシストしたフリーキックで結果を出したことは素直にうれしいものでした。
田上裕はもちろん、赤尾公、永畑祐樹、冨成慎司といったフロントにいる元チームメイトも、なかなかひと目にふれないけれど気にかけています。
8年の時を経て再び鹿児島にやってきた浅野監督の采配からも目が離せません。
「山形戦では鈴木(翔大)くんを左サイドにしたのは勉強になりました。そこでひとつ起点を作りたいのと、多分相手の気持ちを鈴木くんに寄せておいて外山くんをクロッサーにする狙いだったと思うんですけど。僕らの時代にタイプが近い山田(裕也)をサイドに置くってことはなかったし、ああいうパワー系をサイドに置くのは、前のテツさんとの違いとして見れた気がします。河辺くんにしろ、有田くんにしろ、千布にしろ、今まで出てなかった選手ががんばっていて、今まで出ていた選手が負けてられないってなって、いい循環になっているんじゃないでしょうか」

そして背番号11は、新中さんから引き継いで8シーズン目になります。
「今が踏ん張りどころでしょうけど、めちゃくちゃがんばっていると思いますよ。背番号だって変えるタイミングはなんぼでもあったと思うんですけど、ちょっとでも僕の想いを持ってくれているんだったらうれしいです。今はサイドで福田くんや圓道くんみたいにギュンギュン行くしがんばる選手がスタメンで出ているけど、途中から出てきて落ち着かせたり、アクセントをつけるとかそういう役割を果たせるという気はします。ぜひがんばって欲しい。ここ数試合出られていないけど、折れないで欲しいですよね。その気はないとは思っているけど、あいつ変に賢いから、引退っていうのは考えないで欲しいですね」
最後に恒例でこれから鹿児島ユナイテッドFCにどうなって欲しいのかたずねると「もちろんJ1昇格とかしてくれたらOBとして嬉しいです」と言い、もうひとつ大笑顔で足してきました。
「毎年でもいいからOB戦やって欲しいですね!」

30代も後半になって、役職もついて、父親として立派に子育てをしていて、指導者として経験も重ねているけれど…。
新中剛史はそれでも、誰よりも永遠のサッカー小僧であり、ユナイテッド小僧だなあって思っちゃいました笑