【7月13日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2024 vol.12
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は7月13日に行われる2024明治安田J2リーグ第24節、鹿児島ユナイテッドFC vs ザスパ群馬のマッチデープログラムです。


日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2024年6月22日(土)2024明治安田J2リーグ第21節
vs 大分トリニータ 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
前節のモンテディオ山形戦に続いてホーム鴨池に大分トリニータを迎えて行われた22節。
開始直後、大分にゴール前までボールを運ばれミドルシュートを打たれるが泉森涼太が落ち着いてボールを抑える。
14分、パスカットから大分にペナルティエリアへ侵入され、1対1の状況を作られるが泉森の素早い飛び出しでシュートを打たせない。
31分、こぼれ球の回収から山口卓己がゴール前に入れたボールを鈴木翔大がヘディングで合わせる。
34分、戸根一誓の縦パスを受けた右サイドバック野嶽寛也がターンをして、即座に出したスルーパスに抜け出した藤本憲明がGKとの1対1のチャンスを迎える直前で大分DFに倒される。
決定機阻止で退場者を出した大分に対して1人優位になる。
38分、左サイドバック外山凌がゴール前にふわりとした弾道で送ったクロスボールを、大分ディフェンスの前で合わせた鈴木のヘディングが決まって鹿児島が先制する。
後半大分の攻撃を防いだ鹿児島は55分、大分陣内でボールを奪ってそのまま鈴木が出したスルーパスに福田望久斗が抜け出すがGKに防がれる。
69分、藤村慶太が縦に入れたパスを野嶽が倒れ込みながら右タッチライン際の鈴木に送り、鈴木がダイレクトでゴール前に入れたボールを藤本が頭で合わせて2−0とリードを広げる。
さらに退場者を出した大分に対して85分、中盤でボールを奪うと途中出場の田中渉がスペースへ加速する河辺駿太郎の先へパスを出し、河辺はそのまま持ち込むと大分DFを1人かわしてそのまま右足で移籍加入後初ゴールを決め、そのまま立ち見エリアのサポーターたちのところへ駆け寄る。
さらに有田光希も終了間際に終了間際にチャンスを作りながら無失点で3-0の勝利を飾った。

2024年6月30日(日)2024明治安田J2リーグ第22節
vs ジェフユナイテッド千葉 会場:フクダ電子アリーナ(千葉県千葉市)
第23節はジェフユナイテッド千葉とのアウェイ戦。
8分、クロスボールのこぼれ球から千葉にミドルシュートを打たれるがコースを読んだ泉森涼太がおさえる。
10分、千葉陣内でのプレスでボールを奪うと藤村慶太がドリブルで持ち込んで打ったシュートはわずかに枠を外れる。
15分、スローインから左サイドで鈴木翔大が胸で落としたボールに福田望久斗が抜け出して蹴ったボールはファーサイドへ外れるが、逆サイドの圓道将良が回収して再びゴール前に入れて、福田が打ったシュートが決まって鹿児島が先制する。
22分、コーナーキックのこぼれ球を鹿児島が拾ってゴール前に入ったボールを岡本將成が合わせるが、フリーの戸根一誓にはわずかに合わない。
31分、岡本將成が空いたスペースで待つ外山凌へ縦パスを入れて、クロスボールはゴール前を通過するが拾った圓道からボールを受けた山口卓己がシュートまで持ち込む。
36分、浮き球の処理で足をすべらせた岡本がボールを奪われて千葉に攻め込まれる。しっかりとした対応で守るが、最後はシュート性のキックをゴール前で合わせられて同点に追いつかれる。
40分、千葉のロングパスからダイレクトのシュートを打たれるが泉森が右手一本で防ぐ。
42分、スペースに出されたボールに対して千葉選手と競争になった戸根がクリアして、ゴール裏の鹿児島サポーターを煽る。
後半に入った49分、千葉ペナルティエリア目の前で藤村が打った直接フリーキックはGKが弾く。
55分、中盤の競り合いでこぼれたボールを拾った福田がそのままドリブルで前進して最後はシュートまで持っていく。
67分、コーナーキックをヘディングで合わせられ、逆転を許す。
87分、千葉陣内で跳ね返されたボールを藤村がダイレクトで打つがGKが防ぐ。
そのままスコアは動かず1−2で敗戦した。

2024年7月6日(土)2024明治安田J2リーグ第23節
vs レノファ山口FC 会場:維新みらいふスタジアム(山口県山口市)
先週に続いてアウェイで迎えるレノファ山口FC戦。
鹿児島からも多くのサポーターが足を運ぶが、荒れたピッチで鹿児島はうまく攻撃を組み立てられない。
11分、山口最終ラインからロングボールが送られてこぼれたところからクロスが入り、クリアしたところを打たれたミドルはバーの上を外れる。
14分、山口陣内のロングスローからゴール前の藤本憲明がボレーで合わせる。
15分、山口左サイドの突破からふわりと浮かせたボールはポストに当たり、鹿児島がクリアする。
22分、圓道将良のドリブルするボールがこぼれたところを拾った鈴木翔大がそのままシュートまで持ち込む。
40分、左サイドから田中渉、外山凌と続けてクロスを入れて最後は藤本が頭で合わせるがファウルの判定。
50分、山口は右サイドから中へ切り込んでのシュートで鹿児島ゴールを脅かす。
57分、左サイドから外山が入れたクロスがこぼれたところを田中が逆足の右で合わせるが枠を外れる。
64分、山口左サイドから入ったクロスをヘディングで合わせられる。
81分、中盤でボールを奪われ、右サイドへクロスが入る。野嶽寛也がクリアしたボールを拾われてミドルシュート。野嶽がみずからブロックするがもう一度打たれたシュートが決まって山口が先制する。
鹿児島は山口陣内へロングボールを送るが最後までゴールを奪うことはできず、0−1で敗戦した。

浅野哲也 監督コメント(7月9日トレーニング後の記者会見より抜粋)

今日のトレーニングもメニューとしてはいっしょですが、求めることは強く伝えました。
まだまだできないところがあるのと、なれてきた分おろそかになっているところがあるので、今週は修正していきたいです。
切り替えの速さなどチームの成長度合い
言わなくても切り替えられているところはあるので、継続してもらいます。
ただまだまだすべてができているわけではありません。
私から言う前に身体が反応する状態まで持っていきたいです。
連敗を踏まえて
やはり自分たちの自信を持ってやれている時間帯を考えると、千葉戦は悪くはありませんでしたが、山口戦は終始やりたいことができませんでした。
選手たちは自信を少しなくしている部分もあるのでそれを回復させて、メンタルも含めてコンディションを回復させて臨みたいです。
今までやってきたことを継続しながら、アウェイで勝ち点を取れなかったことをホームでぶつけて、中断前の大事なゲームで勝ち点を取れるようにしたいです。
群馬の印象
今は良い状況だと思います。
新加入選手も加わりながら、今までいた選手も必死で戦っていますし、愛媛戦はアウェイで4点取ってシャットアウトして素晴らしいパフォーマンスでした。
相当な意気込みで来るでしょうが、我々はそれを受けるのではなく跳ね返すエネルギーでプレーしなければ、厳しいゲームになると思います。
ホームだからという慢心は絶対にないように取り組みたいです。
残留を争う相手との対戦について
どの相手に対しても、ホームもアウェイも関係なく勝ち点3を取りに行くなかで、我々の目標を達成するには状況を考えます。
ただ相手がどうこうとか勝ち点計算ではなく、勝ち点3を取るために準備して分析をして臨みたいです。
岡本將成 選手コメント(7月9日トレーニング後の記者会見より抜粋)

この2試合結果は出ていませんが、やっている内容はいいところもあります。
もちろん悪い時間もあって紙一重なところはとてもあると思います。
そこで運も含めて拾っていけるように、やることをやっていきます。
守備の出来について
身体を張った守備はできていますが、失点しているので次はクリーンシートで終えて勝てるようにしたいです。
攻撃での持ち上がりについて
練習でミスを繰り返してチャレンジした結果が出ています。
これを続けていきたいです。
群馬戦に向けて
中断期間前なのでたくさんのサポーターが来てくれると思いますし、群馬さんも補強して前節勝って波に乗っているので、僕たちもこれを機に波に乗れるように、目の前の群馬に勝てるようにしたいです。
サポーターに向けて見せたいプレー
魂の入ったプレーで、観客の皆さまに楽しんでもらえるにしたいです。
鈴木翔大 選手コメント(7月9日トレーニング後の記者会見より抜粋)

連敗していますが、切り替えられているので、次の群馬戦に向かうだけだと思います。
球際で意識していること
僕はそれが自分の長所だと思っています。
だから今の強さがチームの基準になるように、自分が示していきたいです。
チームから求められていること
得点を取ることも求められていますが、守備のところで声を出して、全体を引っ張ることなどいろいろなことを求められていて、そこにやりがいを感じています。
ハードワークをしてチームを勝たせられるように、責任感を持ってプレーしていきたいです。
群馬戦に向けて
お互いの順位はありますが目の前の1試合1試合を勝っていかなければなりません。
自分たちのやるべきことをして勝ち点を積み重ねていくことが必要ですし、目先の結果にこだわりたいです。
サポーターに見せたいもの
かっこいいプレーとかきれいなプレーはいりません。
泥臭くてもどんな形でも勝ち点3を取りに行きたいですし、勝っている姿をお見せするので、応援をよろしくお願いします。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.31(Total vol.43)」
泉谷光紀さん(鹿児島県立武岡台特別支援学校教員、鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ監督、知的障がい者サッカー日本代表コーチ)

「3つ伝えたいとしても、一度に3つ伝えたら理解することが難しいので、どれがその子にとって一番優先して伝えるのがいいのかを考えて、シンプルに短く伝えるっていうところですね。根気強く」
知的障がい者サッカーの選手たちを指導するにあたって心がけていることをたずねると、返ってきた答えです。
これは障がいに限定されることではなく、教育現場における普遍的で模範的な姿勢なんじゃないかと思えるものでした。
泉谷光紀さんは鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」の監督で、本業は鹿児島県立武岡台特別支援学校の教員。
この日もフューチャーズの指導者として鹿児島県サッカー協会の会合に参加した後に、近くのカフェにお越しいただきました。
嫌な顔はもちろん、疲れた顔ひとつ見せず、うかがわせず。
夜とはいえ閉店までまだ2時間あるので、じっくりとお話ができそうです。
サッカー選手として
大阪府に生まれ育った泉谷さんは中学時代をガンバ大阪堺ジュニアユースで過ごします。
ずっと高いレベル、プロをめざしていましたがその想いが本気に変わったのは高校3年生の時。
大阪府立堺東高校から、ガンバ大阪やセレッソ大阪のユースや強豪高校サッカー部から構成される、大阪府の国体少年サッカーの代表に選ばれたのです。
自信をつけた泉谷さんは高卒のプロは難しいとしても大学経由でプロになること、そして競技を終えてからもサッカーに携わることを考えて大学を選びます。
「プロになるには全国大会で活躍しないと難しいと考えると関西はどこが勝つか分からない。当時、中・四国は高知大学が強くて、九州では福岡大学と鹿屋体育大学が強くて、そのなかで鹿屋体育大学は芝のグラウンドでできるということと、教員免許が取れることが自分にとっては魅力でした」
当時の監督は井上尚武さん。
九州学生リーグではみずからバスを運転して、アウェイの地で指揮を取って帰りのバスも運転して、練習前には選手より早く来て芝生の手入れをして、S級ライセンスを取得するほどの情熱あふれる指導者です。

そんな井上監督のもと、手術するほどの大怪我で苦しんだ時期もありましたが、サイドバック、センターフォワード、センターバックと様々なポジションで試合に出続けて、入学前の青写真通りインカレや総理大臣杯など全国大会出場の実績を重ねていきます。
大学4年生になった泉谷さんはJリーグクラブや、Jリーグ入りを目指すクラブへ練習参加や選考会に参加して、最終的にJFLからJリーグへの入会が決まったばかりの愛媛FCへの加入が決まりました。
競技としてのサッカーでもがく
愛媛FCで念願のプロサッカー選手になった泉谷さんでしたが、負傷の影響もあってなかなか試合に出場する機会を得られません。
「監督とかは焦らずにリハビリしようって言ってくださってたんですけど、めっちゃ焦るじゃないですか。それで復帰して、でもまだ良くなくて離脱して。結局プレーできるようになったのは5月。本当に力があれば這い上がっていけるんだろうなと今は思います」
チーム練習に復帰してからも同じポジションにJ1からのレンタル加入もあり、最後まで試合に絡めないままシーズンを終えます。
そして1年で契約満了となりました。
「試合に1試合も出られなかったけど、プロになるという夢ではなくチームで活躍することを具体的に描いていればまた違ったのかもしれません。だから自分のなかでプロになったという実感はあまりないんですよね。ピッチに立ってプレーして初めてプロ。その想いがずっとあります」
愛媛FCを退団後はカマタマーレ讃岐へ移籍します。
当時チーム名を変えて、プロ契約選手を入れて、四国リーグからJFLそしてJリーグ入りをめざしていた時期です。

蛇足ですが当時のカマタマーレ讃岐は泉谷さんとは同い年で、後に鹿児島ユナイテッドFCトップチームでコーチを務めた森田栄治さんも活躍していました。
讃岐では多くの試合に出場し、2008シーズンにはリーグ優勝を果たすなどチームは躍進しますが、JFL昇格を果たすことはできず。
また負傷で出場機会を減らした2009シーズンのリーグ戦が終わった後にFC大阪への期限付き移籍を経て、讃岐を契約満了となります。
その段階で26歳の泉谷さんは、サッカーを続けることに加えて、次の道を視野に入れていました。
「JFLによるトライアウト1本だけ受けに行って、それでいい話があれば考える。それがなかったら鹿児島に行く」
当時付き合っていた鹿児島出身の彼女さんに「競技として選手をとことんやらせて欲しい。選手生活が終わったら鹿児島で教員になる」と約束していたからでした。
泉谷さん自身のご実家は妹さんが結婚後もそばにいてくれていましたが、彼女さんのご実家の状況的に自分が寄り添っていたいという想いがあっての約束です。
サッカー選手としてのキャリアにひと区切りをつけた泉谷さんにとって、2度目の鹿児島生活がはじまりました。
教員としてJを目指す鹿児島の選手として
鹿児島に帰ってきた泉谷さんは、南薩養護学校(現在は南薩特別支援学校)の臨時採用で教職員としての道を進みはじめました。
今の立場からすると当然の職場に映りますが「あくまでたまたま臨時で採用があったから」。
2010年春に着任してから夏の正規採用試験まで仕事をしながら勉強をする日々。
そしてこの年の合格には至りませんでしたが、採用試験が終わったタイミングで再びピッチに帰ってきます。
「もともと愛媛を退団した頃から関係者から話をもらっていて、それでプロとしてのサッカーが終りを迎えたら第二の故郷で教員を目指しながら、自分が少しでも力になることができればいいなと思っていたので」
こうして泉谷さんは鹿児島からJリーグをめざして九州リーグでプレーしていたヴォルカ鹿児島に加入します。

とはいえ職場はあくまで南さつま市。
毎日仕事が終わって鹿児島市に移動してサッカーをしてという生活は、片道1時間の運転と2時間弱のトレーニングが本業に乗ってくるわけで、タフでないと耐えられるものではありません。
それも、嫌な顔ひとつ見せず丁寧にやりきるのが泉谷さんです。
2010シーズン、九州リーグは昇格1年目のHOYO(現ヴェルスパ大分)に優勝を許して2位。
2011シーズン、HOYOが2連覇を達成して、ヴォルカと同じく鹿児島からJリーグをめざすFC KAGOSHIMAが昇格1年目にして2位に入り、ヴォルカは3位。
HOYOがJFLに“卒業”した2012シーズン、FC KAGOSHIMAが鹿児島県勢として1986シーズン以来となる優勝を果たします。
鹿児島実業を全国制覇に導いた赤尾公や本城宏紀といった実績ある選手を多く擁するヴォルカでしたが、2位で涙を飲みます。

その間、センターバックのなかで途中出場での守備固めや、逆にパワープレーで局面打開を担う事が多かった泉谷さんですが、このシーズンで現役を引退しました。
「一番は採用試験で3回落ち続けたことです。やっぱり土日もちょっとは勉強できますけど、サッカーに割く時間が中心になります。それで自分には子どもがいたし、やっぱりどこかで本気になってやらないと受からないと思っていました」
サッカー選手の多くは思うようなプレーができなくなってきたり、納得する契約を提示するクラブと出会えないことで引退を決意していきますが、泉谷さんの場合は明確にこれからめざすものがあり、そのためにサッカー選手を辞めるという決断に至りました。
第一線を退いた泉谷さんですが、ここから次なる人生、次なるサッカー生活が待っていたのです。

障がい者サッカーとの出会い
過去3回、泉谷さんは高校の体育教員、そして部活で指導者をすることを思い描きながら採用試験を受けていました。
それが4回目となる2013年の試験では養護学校教員の試験を受けることにしました。
「最初は漠然とサッカー選手としてできるところまでやって、終わったら高校で教員をして部活を見たいって思っていたんです。それが鹿児島に帰ってきてもらった話がたまたま養護学校で、そこに飛び込みました。
実際それまで障害がある子どもたちと関わることが少なかったんですけど、みんなすごく純粋でまっすぐで。昼休みも子どもたちとサッカーでコミュニケーションを取ろうと思ってボールを蹴っていたら人数が増えてきて、気づいたら自分よりも早く行ってボールを準備したり自発的にサッカーをしていて、しかもうまくなっていくんですよね。
みんなすごくいい目をしているし。この子どもたちはサッカーと接する機会がなかった。でも知ったら自分からどんどんやっていく姿を見ていて、障がいがある子どもの指導者になるのもいいなって思っていました。それで当時、学校の教頭と面談があるんですけど、“先生は、特別支援学校が合ってる”って言われて、確かにそうだなと思って。それまで漠然と高校教員をめざしていたけど、高校とか部活動にこだわる意味もないなって思ったんです」
その間も試験対策もあって身体を動かす必要があり、南さつま市のクラブチームで週1回練習してリフレッシュをして、中学高校の体育教師の免許に加えて、さらに放送大学で特別支援学校教諭の二種免許状を取得するための勉強をして、取得見込みで受けた採用試験に4回目で合格しました。
「元の臨時採用の話が高校とか中学校だったら、この道と出会うことはなかったですよね」
人生の転機となる出会いはどこでおとずれるか分かりません。

正規の教員となった泉谷さんの初任地は出水養護学校(現在は出水特別支援学校)。
サッカー部はなく、サッカーとのつながりはひと段落するかと思いきや。
教員1年目を無事に終えようとしていた2015年2月から、鹿児島県の知的障がい者サッカーの選抜チームを見ることになったのです。
さらに9月、2018年の世界選手権通称「もうひとつのW杯」をめざす日本代表の監督に、前回大会で代表コーチを務めた鹿児島県出身でヴォルカ鹿児島OBでもある西眞一さんが就任したタイミングで、泉谷さんに代表コーチの話がおとずれます。

「2月に知的障がい者のサッカーをするぐらいのところだったから、“本当にいいんですか?自分で”みたいな」
そして3年後にはスウェーデンで「もうひとつのW杯」が開催されるにあたり、鹿児島県から2人の選手が日本代表に選ばれ、西監督とともに4人で、鹿児島ユナイテッドFCのホームゲームでの壮行会に参加しました。

その頃、ヴォルカ鹿児島とFC KAGOSHIMAが統合した鹿児島ユナイテッドFCでは、ヴォルカ時代のチームメイトであり鹿屋体育大学の後輩でもある赤尾公が中心選手として牽引していて、鹿児島をサッカーで盛り上げようとがんばっています。
「自分もヴォルカ鹿児島でプレーしましたが、そのヴォルカとFC KAGOSHIMAがいっしょになって、地道に歩んでいってくれていて、自分もその前身のチームに関われたし、お世話になった鹿児島にこういうチームがしっかりとできて、観客もたくさんいて、嬉しい気持ちでした」
泉谷さん自身はなかなかスタジアムに足を運ぶ時間はありませんでしたが、気になる存在ではあり続けていていました。

フューチャーズの誕生
世界選手権を終えたくらいから西さんとユナイテッドとの間ではひとつの話し合いが続けられていました。
多くの知的障がいがある子どもや元学生がサッカーをする場が限られているため、選手の発掘、チームの強化、裾野を広げるという点で課題になっていることは、西さんも泉谷さんも感じていることでした。
一方でひとつのチームを運営するには人の手もお金もかかりますし、なによりそのチームを必要とする人たちに、チームの存在を知ってもらわなければなりません。
逆にチームをきちんと運営することができれば、高等特別支援学校などで活躍した選手が卒業後もサッカーを続けることができるし、レベルを問わずサッカーに挑戦したい子を受け入れることができます。

西さん泉谷さんたちの想いと鹿児島ユナイテッドFCの想いが合致したことで、2019年2月、鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」が創設されました。
「Jリーグクラブの中に知的障がい者のチームがあることで、メディアとかにも報道していただく機会が増え、障がいがあってサッカーをしたいけど、どこに行けばいいのか分からない人たちが集まってくれるようになったらいいなあって思っていました。そして選手たちがプロクラブのエンブレムをつけて練習とか試合ができるようになることは、すごくモチベーションになると思いました」
日本代表でもいっしょの西さんは総監督に就任して、泉谷さんが監督に就任します。
「前の年の県選抜の選手がそのままフューチャーズになった形でしたが、県選抜監督とは、また違う引き締まる想いがしました」
チーム名は鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズとなり、Jリーグクラブの一員となりましたが、もちろんそれだけですべての状況が変わるわけではありません。
最初の頃はなかなか練習に選手が集まりません。
経験の場として鹿児島県社会人リーグに参加しますが、試合にも人数がそろわずに二桁失点で敗れることもありました。
そういう状況を踏まえて、社会人リーグにはコーチ陣から磯田さんや古薗さん、そして泉谷さんも含めて選手としてピッチに立ち、いっしょにプレーしながら選手たちが成長していけるようにうながす方針を取りました。
「でも自分は1試合目の社会人リーグでアキレス腱を切ったんですよ」

それでも泉谷さんの情熱は衰えません。
選手たちに対しては「60分(30分ハーフ)ハードワークする」「シンプルにゴールを意識する」「粘り強く守る」「ラインの上げ下げを意識する」といったサッカーの原則を徹底的に意識させます。
そこで冒頭の答えにつながる質問として、サッカーを指導するうえで健常者と知的障がい者で接し方がどう変わるのかをたずねました。
「もちろん指導者が噛み砕いて伝えていることはあります。あとは小学生年代の指導と似ているかもしれません。3つ伝えたいとしても、一度に3つ伝えると理解することが難しいので、どれがその子にとって一番優先して伝えるのがいいのかを考えてシンプルに短く伝えるっていうところですね。根気強く。週1回2回しか練習できないわけで、1週間前に伝えたことが次の練習の時には忘れてて当たり前くらいのスタンスじゃないとだめだろうなって思います。
“先週言ったじゃん”は彼らには通用しないので、そう言えば先週はこうだったなって思い出してくれたら個人的にはそれでもOKだ、ちゃんとつながった。次はもっとスムーズにできるように繰り返しやっていこう、と」
ピッチ上で選手たちと接する泉谷さん、他の指導者たちも含めて誰もが穏やかでやさしく選手たちに問いかけて、できるだけ自分自身で答えを出せるようにうながしていて、「なんでできないんだ」と叱責するような姿は想像できません。

「でもちょっとした時に、挨拶とかみんなで準備することとか、今までできていたことができなくなったりとか、ちょっとプレーが怠慢になったりとか、こういう部分は絶対に見逃さずに気づかせないといけません。それは自分たちもそうですけど、どこかで自分にスキがあったことに気づいて我に返ったりしますし」
多くの人が「そういう指導ができたら理想的だよね」と思うやり方をフューチャーズの指導者たちは丁寧に実践しています。
6シーズン目を迎えたフューチャーズからはキャプテンの原良田龍彦選手を筆頭に、原田康汰選手、福原碧人選手、下鶴掛夢選手と4人の代表経験者を送り出し、高等特別支援学校を卒業したばかりの小才天太選手も代表トレーニングパートナーに選ばれる機会があります。
九州選抜にも多くの選手が選ばれており、着実に選手たちが育っています。
特筆すべきは全員が10代から20代なかばの若手中心であること。
フューチャーズの選手たちの軌跡について詳しく、、、書いているとこのコラムが純粋に3倍になるので昨年公開された原良田龍彦選手と下鶴掛夢選手のコラムから、選手たちの想いについては感じていただければ幸いです。


ところで最近、原良田選手は代表に選ばれる機会が減っています。
10代のうちから不動の代表選手であり続けた原良田選手が、選手としてピークにある20代なかばの今、代表になかなか食い込めていない。
その現状は「日本全体のレベルが上ってきているから」が答えでした。
以前の日本代表は競技人口が多くて交流も容易だった東京の選手が大半を占めていましたが、代表監督に就任した西さんは丹念に日本中をまわって可能性がある選手を発掘して、代表合宿に呼び、その経験が各地域に還元されることで日本全体のレベルが上ってきています。
もちろん長きにわたってずっと障がい者サッカーを育んできた先人たちの尽力があってこそ、ということも泉谷さんは忘れることなく強調します。

そのレベルが上ってきた日本の知的障がい者サッカーにおいて、九州代表として出場した3月のチャンピオンシップでは初優勝を果たします。
鹿児島県知事と鹿児島市長へ報告の表敬訪問を行い、多くのメディアに取材され、多くの注目を集めました。
それでも昨年の特別全国障害者スポーツ大会で鹿児島を準決勝で下して6連覇を達成した絶対王者、東京都が出場していなかったこともあり「やはり全国障害者スポーツ大会で1番を取ってこそなんです」と今年は佐賀で行われる舞台でのリベンジに心を燃やしています。

そして日本代表として次の世界選手権への想いもあります。
初めて出場した2018年大会ではサウジアラビアに「一瞬のスキを突かれて敗れた」悔しさが残りました。
映像で見ているのと違い、実際に目の前で対戦した時に世界の強豪が持つパワーやスピード、決定力、ぶつかった時の音の違い、すべてが印象的なものでした。
フランスで予定されていた2022年大会は新型コロナと世界情勢の影響により大会自体が中止され、4年間の準備が流れてしまいました。
だからこそ正式な開催地は決定されていませんが、2026年に行われるであろう次こそはの気持ちです。
一方で中止になった世界選手権ですが、フランスとは2試合の親善試合を行い、昨年末もアルゼンチンに遠征して2試合の親善試合を行う機会がありました。
「アルゼンチンはドリブルのうまさとか小さい体格でも身体の強さがあって、フランスもサイドの選手がすごく速かったり大柄だったり」という感覚を選手もスタッフも、ネットやテレビの情報ではなく対戦して感じることができました。
そのアルゼンチンとフランスについての印象は、フル代表だったり強豪クラブでプレーする両国出身の有名選手たちにも通じるものがあります。
そして日本代表が掲げるのは全員攻撃全員守備。
環境が成熟するにつれてあらゆる場所でのサッカーが、徐々に所属するコミュニティのサッカー文化を反映したものになっていくものなのかもしれません。
知的障がい者サッカーのなかでも“日本らしさ”がありました。
文化としてのサッカーへ

忍耐強く、前向きに、丁寧に選手たちの成長をうながしてきた鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ監督の泉谷さん。
「サッカーだけやっていて、仕事をちゃんとしないのではいけませんから」と泉谷さんは言い切り、選手たちには社会人として生きていけるように大切なことを伝え続けています。
フューチャーズの充実は、選手たちの職場や学校での生活も充実しているからでもあります。
そんな泉谷さんに、これからのユナイテッドにどうなっていって欲しいかを聞いてみました。
「もちろんユナイテッドにはJ1でもプレーして、結果だけでなく内容でも認められるチームであって欲しいです。そしてやっぱり県民に愛されるチームであってもらえたらと思いますね」
県民に愛されるとはもう少し具体的に言うと泉谷さんにとってどういう景色でしょう?
「なんですかね、普通の日常の会話でユナイテッドの話題がぱっと出てくる。“昨日の試合勝ったね”とか“次の試合観に行こうか”とか。街のなかでそういう会話がサラッと出てくる街なんじゃないかなって思うんです。
もちろんたくさんの人にスタジアムへ足を運んで試合を診てもらうこともすごくいいんですけど、テレビで放送があれば家で観るとか、スポーツバーで観るとか。ネットニュースで観て興味を持つとか。子どもたちがユナイテッドをめざしてがんばっていて、それを応援する親やおじいちゃんおばあちゃんがいるとか、そういうところですかね。
あのスタジアムにも色々な年齢層の方々がいて、スタジアムでも試合を観ながら飲むビールが美味しいとか。そういうのもいいと思うんです。車椅子の方も結構観に来られていますよね?」
ええ、鴨池の車椅子の方向けのスペースはいつも事前予約で埋まります。
「自分の教え子も観に来たことがあって、田上さんと写真を撮ったらしくて、そういうのもいいなあって思います」

鹿児島ユナイテッドFCのホームゲームには多種多様な方々がおとずれます。
老若男女が偏ることなく混在していて、車椅子のサポーター、杖をつくサポーターの姿もあり、目に見えない障がいを持ったサポーターもいて、社会的地位のある人たちもその立場を忘れて応援に夢中になっています。
そしてゴールが決まった瞬間の爆発、興奮。
イエス・キリストは「信じる神の前に人はみな平等」と言いましたが、「応援するクラブの前に人はみな平等」なのかもしれないと思わせる光景が、スタジアムにはあります。
そんなスタジアムの場内外で、フューチャーズに所属する選手の1人が毎試合のようにボランティアとして運営を手伝ってくれています。
サッカー未経験の状態からフューチャーズに参加して、毎週サッカーをして、決してうまい方ではないけれどレベルを問わず仲間たちとひたむきにボールを追い続けて、少しずつ少しずつ着実に上達していって、公式戦の出場機会を得るまでになりました。
試合に出ない時もみんなの飲みものを準備する、ボールなどの道具を運ぶことなどチームの一員としての細々としたことを他のベンチメンバーも含めてみんなで行い、いつ出番が来てもいいようにアップをする姿を見ることができます。
かなり前からボランティアをしたいと本人からの希望はありましたが、みんなにとっての挑戦としてボランティアとして受け入れ、今ではホームゲーム運営にとって大きな助けとなっています。
彼のサッカー選手として、1人の社会人としての成長もまた鹿児島ユナイテッドFCにとっての偉大なる成果と言えるでしょう。

鹿児島ユナイテッドFCが高いところをめざしているからこそ、横の広がりは欠かせません。
その横の広がりを語るうえで大切な要素のひとつを示しているのが、鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの選手たちであり、監督としてその成長を信じてうながし続ける泉谷さんです。
「自分のサッカー指導の入口が知的障がいサッカーなのでそことは今後も関わらせていただきたいです。仕事も特別支援学校の教員というところでそのやりがいはいっぱいあります。教員でやっていることがサッカーの指導にも生かされますし、サッカーで指導していることが教育現場にも生かされていて、いい両輪になっていてこの形で続けていきたいですね」
カフェの閉店時間が迫り、店員さんに声をかけられるほど長い時間、泉谷さんはずっと丁寧に誠実に熱心に話を続けてくださりました。
ここでは書ききれないことをたくさん。
泉谷さんはユナイテッドOBではなく前夜史を彩ったヴォルカ鹿児島のOBですが、改めて思うのは、この人が高校教員として部活の指導者となる未来も悪いものではなかったのでしょうが…。
やはりフューチャーズというチームの監督としてユナイテッドの一員として携わってくださっていることは、鹿児島ユナイテッドFCにとって本当に幸福なことだと感じました。