【11月10日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2024 vol.19
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は11月10日に行われる2024明治安田J2リーグ第38節、鹿児島ユナイテッドFC vs ファジアーノ岡山のマッチデープログラムです。
日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2024年10月19日(土)2024明治安田J2リーグ第35節
vs 愛媛FC 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
ホームで迎えた第35節の愛媛FC戦。
4分、愛媛が左サイドからペナルティエリアまで侵入するが、シュートは泉森涼太がキャッチする。
12分、ボランチの山口卓己から左サイドの圓道将良へ長いパスが通る。愛媛陣内まで駆け上がった山口が圓道からのリターンを受け取ると、思い切って振り抜いたミドルシュートがゴール隅に刺さって鹿児島が先制する。
28分、野嶽寛也が左サイドから入れたクロスからクリアボールを拾い続け、最後に打ったシュートはクリアされる。
29分、野嶽のショートコーナーを受け取った田中渉がゴール前に入れたボールを戸根一誓が頭で合わせるがわずかにポストの外へ外れる。
31分、圓道のパスを受けた有田稜がシュート性のボールをゴール前に入れるがGKがパンチングで防ぐ。
51分、中盤でボール収めた有田稜から星広太、田中、星とテンポよく右サイドでボールが動き、ペナルティエリア内で藤村慶太が入れたボールを鈴木翔大が合わせて2-0とリードを広げる。
72分、遠い位置のフリーキックを野嶽が左サイドに投入されたばかりの福田望久斗へ渡る。
福田は一気にドリブルで突破を仕掛けると、ペナルティエリア内で倒されてPKを獲得。
みずから決めて負傷から復帰した最初のプレーで結果を残す。
79分、愛媛はゴール前で絶妙にバウンドするシュートを打つが、泉森が弾く。
89分、野嶽が右サイドから入れたフリーキックがオウンゴールとなり、4-0。
無失点で勝利を飾った。
2024年10月27日(日)2024明治安田J2リーグ第36節
vs V・ファーレン長崎 会場:PEACE STADIUM Connected by SoftBank(長崎県長崎市)
アウェイ長崎に2,000名もの鹿児島サポーターが集まった第36節。
12分、中盤のボールの奪い合いから鹿児島守備陣の背後を取られ1対1の危機を迎えるが、GK泉森涼太の飛び出しで失点を防ぐ。
14分、中盤でボールを奪われるとそのまま長崎は速攻からのシュートで長崎が先制する。
17分、長崎がパスワークからゴールエリア付近まで迫るが、泉森が飛び出してクリアする。
33分、左サイドで山口卓己、圓道将良、野嶽寛也とボールを動かし有田稜への縦パスから、有田稜の落としで田中渉にボールが渡るが、田中のシュートは長崎がブロックする。
38分、鹿児島ペナルティエリア周辺でのパス交換から打たれたミドルシュートは泉森が弾く。
43分、右サイドに展開した長崎はドリブルでボールを運び、最後はわずかな隙間を狙った正確なシュートが決まって2点差となる。
後半に入った47分、鹿児島はコーナーキックからゴール前の藤村慶太が頭で合わせたシュートはわずかにバーの上を通り過ぎる。
49分、ボールを受けた有田稜がドリブルで強引に進み、田中に落とし、田中がシュートで合わせる。
57分、長崎が戸根一誓とのクリアボールの競り合いから一気に加速すると、そのまま鹿児島陣内に入り、最後は井林章をかわして3点目のゴールを決める。
61分、中盤でボールを持った野嶽がゴール前に浮かせたボールを送る。
ペナルティエリア内に入り込んだ田中が頭で合わせて鹿児島が1点を返す。
81分、長崎は左サイドからドリブルで突破を仕かけ、最後はゴール前の折り返しを押し込んで4点目を決める。
89分、長崎陣内でパスから左サイドの野嶽がゴール前に入れた低いクロスはわずかに合わない。
93分、右サイドから河野諒祐が入れた低いクロスに沼田駿也が合わせるがGKに防がれる。
1-4で敗戦し、J3降格が決まった。
2024年11月3日(日・祝)2024明治安田J2リーグ第37節
vs 徳島ヴォルティス 会場:鳴門・大塚スポーツパーク ポカリスエットスタジアム(徳島県鳴門市)
J3降格が決まったなかで迎えた第37節のアウェイ、徳島ヴォルティス戦。
8分、徳島最終ラインでのパス回しからGKのパスをカットした田中渉がフリーの鈴木翔大へパスを送るがオフサイド。
9分、徳島の突破から数的不利の状況を作られるが、星広太を中心に防ぐ。
10分、徳島は左サイドからペナルティエリア内にパスを通し、星がカットしたところを拾われて、最後はファーサイドへのシュートが決まって徳島が先制する。
19分、中に入ってボールを受けた圓道将良がミドルシュートを打つ。
22分、鹿児島守備の背後へロングボールを送られるが、トラップが長くなったところを泉森がキャッチする。
29分、星が中央へ戻したボールを藤村慶太がダイレクトでペナルティエリア内へ入れる。
徳島のマークを外した有田稜がヘディングで合わせるが、ポストに跳ね返される。
31分、徳島はパスの交換から鹿児島陣内に入り込みシュートをするが、泉森が足で防ぐ。
40分、右サイドからペナルティエリアにボールを運ばれるが、戸根一誓がシュートは打たせない。
47分、徳島はペナルティエリア内右側から逆へ浮かせたボールで、角度のないところからボレーで合わせる。
59分、ゴール正面から田中が打った直接フリーキックはGKがキャッチ。
76分、コーナーキックの流れから強烈なミドルシュートを打たれるが泉森がセーブする。
78分、田中がペナルティエリア内へ浮かせたボールを鈴木翔大が競り合い、右サイドへこぼれたボールを田中が拾って左足で早いクロスをファーサイドへ送るが、沼田駿也には届かない。
90分、左サイドで沼田、鈴木、野嶽とつなぎ、野嶽が左サイドからゴール前へ送ったボールを、遠い位置から有田光希が頭で合わせるが、バーに当たる。
1点が遠く、0-1で敗戦した。
浅野哲也 監督コメント(11月6日トレーニング後の共同会見より抜粋)
大事なホーム最終戦です。
ここのところホームでは良い結果が出ていますし、この最終戦に懸けて色々な想いが、我々だけでなく皆さん持ってらっしゃると思います。
勝って少しでも笑顔を届けられればと思います。
とはいえやることはいつもどおり粘り強く闘う90分にすることです。
そして結果を出したいです。
ファジアーノ岡山についての印象
ここのところも好調ですし、試合を観ても強度の高いゲームをできています。
そこに我々も負けないように、試合の中でも状況が変わることはありますが、最後の笛が鳴るまで何が起こるか分かりません。
いかに我々のほうが色々な意味の強さを持って試合に臨めるかだと思います。
岡山さんは調子がいいですが、負けない強さをもって臨みたいです。
シーズン途中での就任について
簡単にはいかないという想いでここに来て、そのとおりになりました。
ただもっともっとやれることはあったと思いますし、自分自身の力不足をすごく感じました。
選手やコーチングスタッフ、クラブスタッフも含めてこのJ2の舞台を守りきりたいという想いは毎日毎日感じられましたし、それを結果に結びつけようとしました。
結果的にこのような状況になった責任は感じております。
苦しい思いをしてJ3からJ2に昇格して、色々な人の想いがつまったシーズンだったはずです。
それをこういう結果で終わらせたことは、途中就任だからということは関係なく、すべての責任は私にあると思っています。
本当に残り1試合悔いの残らないようにやっていきます。
シーズン途中から指揮する難しさ
この結果ですから、伝わった部分も伝わらなかった部分もあります
伝わらなかった部分は私の力不足です。
トレーニングも含めて意識のところを伝えきれなかったことはすごく自分で情けなさを感じます。
ただ、選手たちは日々真摯に取り組んでくれていましたので、なんとか結果で報いたい想いは強かったです。
もちろんほかのJ2のチームもレベルが高いですし、簡単にはいきませんが、いいゲームでは選手の強度もあり、隙を見せない展開をできていました。
課題としてそういうゲームを続けられないことは、私の落とし込みが足りなかったと思っています。
今後に向けて
残留という目標が途絶えた後のゲームの大切さは選手たちに伝えていました。
長崎戦で目標は潰えましたが、その後の姿勢は本当に大事だし、今シーズンは残り1試合ですが、鹿児島ユナイテッドFCの未来はどんどんつながっていくものです。
それがJ3であれJ1であれクラブの歩みです。
そこに携わったものとして、なんとか次につなげたいという想いがあります。
もちろん我々が結果を出すのは試合においてですが、それだけでなく普段の練習や生活から、みんなが家族のように成長していく手助けになれればと思っていましたが、選手たちにも苦しい想いをさせました。
私にとっても思い入れのあるクラブです。
最後の最後までこのクラブのためにできることを自分なりにしっかりやっていきたいです。
サポーターに向けて
どの試合でも、ホームではもちろんアウェイでも声を枯らして我々の背中を押してくれました。
そのサポーターさんの想いは選手も感じています。
今シーズン最後のゲームですが、その方たちの想いを背中に乗せて、勝つという結果を残さなければなりません。
ピッチに立つのは選手ですが、ピッチに立てない選手、関係者もひとつにならなければなりません。
そしてこの状況でも最後の最後まで大きな声援をいただけると思いますので、そのサポーターさんに恥ずかしくない試合、勝つ試合をお見せして、締めくくれればと思います。
木村祐志 選手コメント(11月6日トレーニング後の共同会見より抜粋)
自分の現役最後にはなりますが、今シーズン最後のゲームでもあります。
降格は決まってしまいましたが、うちにはたくさん応援してくれているサポーターがいるので、まずはその人たちのために、勝利のためにチーム一丸となってがんばっていきたいです。
自分たちにとっても苦しいシーズンでしたが、応援してくれるサポーターも苦しいシーズンだったと思いますし、苦しい想いをさせてしまったと思います。
降格が決まったけれど、最後は勝利という形で終われるようにやっていきたいです。
キャプテンとしてここまでを振り返って
難しいことですが1年で降格しました。
クラブとしては5年前も1年で降格した事実があるので、クラブとして1人1人が反省して、来年はしっかり1年でJ2に帰ってこれるように、来シーズンにつながる試合をお見せできるのが一番だと思っています。
そこに向けて皆さんとやっていきたいです。
最終戦に向けて
今シーズンは降格という形で終わりましたが、鹿児島ユナイテッドFCが終わるというわけではありません。
あと3ヶ月したらJ3も開幕します。
そんなに落ち込んでいる時間もないので、チームとして切り替えて来年につなげていきたいです。
今後に向けて
終わってから詳しく話そうと思いますが、いい区切りがついたので、あまり未練とかはありません。
気持ちよく次のステージに向かいたいと自分は思っています。
キャリアにおける鹿児島の位置づけ
鹿児島ユナイテッドFCもそうですし、僕は鹿児島自体が好きになりました。
自分たちもそうですけど、サポーターの皆さんにももっともっと鹿児島をアピールしていって欲しいです。
全部が好きなので、今後がどうなるかは分かりませんが、自分もアピールしていきたいです。
有田稜 選手コメント(11月6日トレーニング後の共同会見より抜粋)
このチームに来させてもらって、目標を達成することができなかったのが本当に悔しいです。
それでもプロとしてラスト1試合、全力で闘って勝ちたいというのが正直な気持ちです。
夏に加入してからを振り返って
初めて夏からチームに合流させていただいて、結果を出せませんでした。
自分が結果を出せれば残留できたと思っているのでそこはすごく責任を感じていますし、難しさも感じました。
新しい環境に来るとサッカーも変わりますが、自分の良さを出せると思ってここへ来たので、そこで自分の力不足、決めきる力がまだまだ足りないと思いました。
ファジアーノ岡山戦に向けて
元いわきの選手もいるし、縦に速いサッカーをしてくるので、そこで負けないことと1対1が大事になってくると思います。
岩渕弘人、嵯峨理久、いわきの監督だった村主博正さんもコーチでいらっしゃいますし、絶対に負けたくない相手なので死ぬ気で闘いたいです。
サポーターに向けて
鹿児島のサポーターは人もすごく温かいですし、人数も集まってくれていて、すごくいい雰囲気でサッカーができることは価値のあることで、本当に良かったことのひとつだと思っています。
恩返しという意味でも絶対に勝ってみんなでよろこびたいです。
本当に闘う姿や、なにかひとつのプレーで勇気や感動を届けられると思っています。
そういうプレーができるように選手全員で取り組んでいって、最後いい形で終わりたいです。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.37(Total vol.49)」
西眞一さん(鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ総監督ほか)
現役生活13シーズンで九州リーグ得点王に輝くこと9回。
7年連続得点王、8回目と9回目の得点王は引退前の2シーズンで達成したという事実に圧倒されます。
通算266ゴールはひとつのリーグにおける日本最多得点記録で、釜本邦茂さんや呂比須ワグナーさんをも上回ります。
多くの記録を刻んだ男、西眞一さんは穏やかにやさしく微笑みながらさっそうとイオンタウン姶良の喫茶店に姿を表しました。
コーヒーといっしょに注文したのはたっぷりアイスクリームが載った熱々デニッシュ。
漏れ聞く現役時代のストイックなエピソードや成し遂げた記録、実直な人柄からはかなり意外ですが「現役時代から甘いものは大好きでして」と目尻を下げながらこちらにも半分食べるようにうながしてくださります。
鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」中心のチームで挑んだ全国障害者スポーツ大会「SAGA2024」を終えたばかりなので、その話からと思っていましたが、自然と西眞一さんの原点から話が始まりました。
高校大学時代
高校時代に西さんが所属していたのは県内きっての強豪、鹿児島実業高校…ではなく公立の鹿児島玉龍高校でした。
奇しくも西さんが3年生の時に同級生の笛真人さん、若松賢治さん、ひとつ下の前園真聖さん、仁田尾博幸さん、藤山竜仁さんたち将来のJリーガーが活躍して、鹿児島実業高校は選手権準優勝を果たした時代です。
「自分はそんなにうまくないと思っていたので」
当時まだ日本にプロサッカーはなく、選手として目指す場所はなく、競技として高いレベルに自分がいるとも思っていませんでした。
しかし3年生の時に国体の鹿児島県代表に選ばれてそこでプレーできたことで、西さんは自身の可能性を感じます。
さらに大岩剛さんや名波浩さんたちを擁する静岡県代表と3位決定戦で対戦して、「鹿児島の外を観ることができた」ことでもっと高いレベルでやりたいと考えるようになり、大学サッカーの強豪である筑波大学を受験します。
ところが。
「自分には考えがなかったんですよ。一般常識、社会や経済、そういったことに関心を持っていなかったし、小論文や面接の準備も何もしていなかった。勉強はトップクラスだったけど空気が読めなくて、授業が終わると、まだ問題集に向かっている同級生に構わず、すぐにサッカーするためにグラウンドに飛び出していって」
サッカーの実技以前の段階で落第しました。
筑波大学はかつてユナイテッドで活躍した田中秀人さんのような浪人経験者は珍しくありませんが、浪人はしないと決めていた西さんは鹿児島経済大学(鹿児島国際大学)に入学しました。
それが結果として「鹿児島に生きる西眞一」の生き様につながっていきます。
当時の鹿児島経済大学サッカー部は九州1部リーグではありませんでしたが、それまでの中盤からFWへとポジションを変えた西さんは徐々に頭角を表します。
九州選抜に入り、チームも1部リーグを経験するなど充実した4年間。
そして卒業後、西さんは就職浪人をしているさなか鹿児島サッカー教員団に加入します。
ヴォルカ鹿児島時代(95-02)
「結局ですね、私は本当に人に恵まれて、感謝しかありません。鹿児島県内で教員団は最高のチームで、教員しかだめだったところを理解してもらって」
デビューした1995シーズン、九州リーグ新人王を獲得することで周囲の想いに応えたのです。
そして「鹿児島にもJリーグを」の声が上がり、教員団を母体にしたヴォルカ鹿児島が誕生します。
姶良町役場という職場を得て、錦江湾に隣接する国道10号線を通って練習に通う日々。
ヴォルカ鹿児島として迎えた最初の1996シーズン、西さんははじめての得点王に輝きます。
「最初のころはポストプレーが多くて。シンプルにはたいて、マークしてくる相手ともコンタクトしながらやる」
最前線で時間を作って、味方に一度あずけると今度はペナルティエリア内へ。
味方からパスやクロスが返ってくる。
右足で、左足で、頭で、一発でしとめる。
どれこれもすばらしいものでしたが、「空中で止まるような」滞空時間の長いヘディングが特に印象深いと、当時からのサポーターはおっしゃっていました。
背番号9を背負った西さんはゴールを決め続けます。
翌シーズンも、その翌シーズンも。
「点を取れるっていう自信はつきますよ、自信はね。でも下手くそだっていう想いはずっと変わらない。だから僕は連続して得点王を取れたのは“偶然じゃないんだぞ”って、連続して取ることで自分の力を証明することにつながるって思っていたんです。
そのために色々やりました。特にシュートの練習では“ここに出してくれ”とか“どういう風にしたかったのか”とチームメイトとたくさん会話をしていました」
4年連続で得点王になることで、3年連続得点王がまぐれでないとようやく証明できる。
5年連続を獲ることで、4年連続がまぐれでないとようやく証明できる。
攻撃の下ごしらえと仕上げを高次元で兼ねる存在感に、対戦相手から「とにかく西を潰せ」と厳しいマークを受けることになりますが、西さんは負けません。
「自分が下手くそだから上手くないから練習するしかなくて。自分へのネガティブな感情から、自分のプレーを奮い立たせて」
1996-2002シーズンの間に7年連続で九州リーグ得点王の偉業を達成する西さんには、いつしか周囲から敵味方を超えて尊敬を込めた「キング」が枕詞につくようになります。
ヴォルカ鹿児島時代(03-07)
2002年日韓W杯で日本中が熱狂した翌2003シーズン、それまでも上を目指し九州リーグの上位にいたヴォルカ鹿児島が、本格的な強化に乗り出しました。
鹿児島県出身の前田浩二選手兼監督を迎え、内藤就行選手兼コーチ、野田知選手兼コーチと3人のJリーグ、J1経験者を加え、九州リーグ優勝、JFL昇格そして将来のJリーグ入りを目指すようになります。
「(前田監督体制だった)2年間、得点王は獲れていない」と笑いますが、もちろん前田監督への批判ではありません。
それまでビルドアップからシュートまで「戦術は西」状態だったヴォルカから、野田選手兼コーチが中盤で組み立てて、西さん以外の選手たちがゴール前で点に絡む機会を増やすチーム作りをしていました。
そのチーム作りと、選手たちの質が上がったことでヴォルカは、そして西さんははじめてJFL昇格をかけた全国地域サッカー決勝大会への出場を果たします。
3日で3試合が行われるリーグ戦でしたが、ヴォルカはザスパ草津(ザスパ群馬)に敗れ、昇格を逃します。
捲土重来を期した2004シーズンも九州リーグ3位に終わり、前田監督は辞任。
さらに財政難に陥ったことで大幅に戦力は減少しました。
そのなかでも西さんは33歳で迎えた2006シーズンには、2002シーズン以来の得点王に返り咲きますが、チームはなかなか優勝争いに絡むことができません。
「(焦りは)ありますよね。もう本当にJリーグに上がりたいと思っていますかって。前田さん、内藤さん、野田さんたちがもういなくなった。そんな先が見えないなかでも選手たちは一生懸命目標を持ってやっていて、それに対してクラブはどうなんだって強い感情を持っていましたし」
同時に、この時期は日本のあちこちで「我が街にもJリーグを」と目指すクラブが次々と誕生して…思うように結果が出ない年月の末に、解散するクラブも散見される時代でした。
そうなることもありえたヴォルカ鹿児島を、「鹿児島にJリーグ」の種火を消滅させてはいけないと尽くしてくれている人たちがいました。
「心が折れるっていうことはなかったです。それはもう“仕事”ですから」
あくまで本業は姶良町役場に務める公務員であり、サッカーでお金を稼ぐことはありませんが、活動費をクラブが用立てるために支えてくれる人たちがいること、先が見えない苦しみのなかでも投げ出すことなく応援してくれる人たちがいることの意義を西さんは身に染みて理解していました。
だからこそ西眞一にとってサッカーは「職業」ではなくても、かけがえのない「仕事」だったのです。
30歳を過ぎて少しずつ身体の無理がきかなくなっていく中でも、西さんはゴールを決めるために、チームを勝たせるために、ピッチに立ち続けました。
2007シーズン、19試合で23得点を決めて、13シーズンで9度目の得点王に輝きました。
高卒3年目のFW辻勇人は「身体が大きいわけでも、足が速いわけでも、特別上手いわけでもない。それでもあれだけゴールを決めることができる。ワンタッチゴールを西さんから学びました」と憧れた背中を回想しました。
高卒1年目のFW山田裕也は「スーパースター。とにかく点を取る。“なんであんなにゴール前でフリーになれるんだろう?”って思ってました」と率直に敬意を表しました。
キャリア晩年を迎えてなお、他を圧倒する存在感を放ち続けていました。
そして最終節を終えた後の本城陸上競技場のロッカールームで、西さんはチームメイトたちに引退を告げました。
主に競技運営を担当していたフロントの湯脇健一郎も、辻勇人も山田裕也も、誰もがなんの前触れもない引退宣言に驚愕しました。
「1年1年、大げさかもしれないですけどやっぱり覚悟を持ってやらないといけないと。30歳を過ぎて仕事をしながらですが、サッカーで手を抜くことができない。100パーセントやろうとしたら本当に覚悟を決めないといけませんから。
それで今シーズンで終えようとか決めていたわけじゃないんですけど、あの試合が終わった時にシンプルにすっとこう思って。
それから勇人や山田に託したほうがいいなと。
もう僕もやるからには負けたくないから試合に出るためにやるし、そうしたら監督も使ってくれるし、それで山田と勇人、どちらかは試合に出られるんだけど、僕が出るとそのポジションがひとつに減るわけで、それはどうなのかなと思っていて」
2007シーズン時点で言えば西さんの方が能力でも経験でも、ストライカーとしての格でも上なのは疑いようはありません。
しかし5年後さらに10年後に「鹿児島からJリーグ」を考えると、それを背負うであろう彼らこそが、試合に出て力をつけていく必要があると西さんは考え、そして現役を退きました。
引退記念試合では6ゴールを決めて、最後の最後までらしさを観るものに届けて。
辻は西さんが引退した翌々年の2009シーズン、それまで3番手4番手FWだったにも関わらず、誰も背負えず空いていた背番号9を西さんとクラブに志願して受け継ぎ、西さん以来の九州リーグ得点王に輝きます。
さらに2013シーズンには後発のFC KAGOSHIMAの選手として、鹿児島をJFL昇格に導くゴールを決めます。
その時期に湯脇はヴォルカ鹿児島の代表として、FC KAGOSHIMAとの統合を実現するために、鹿児島教員団からはじまるクラブの歴史に幕を引く責任を果たします。
2つのクラブが統合して誕生した鹿児島ユナイテッドFCの2015シーズン、それまでは身体能力と本能的なプレーが先んじていた山田は、西さんのようにゴール前での勝負強さを発揮。チーム得点王となる11ゴールの活躍で鹿児島のJリーグ入りに決定的な役割を果たしました。
現役引退後、障がい者サッカーの領域に軸足を置いてい西さんは、東京帰りで30歳そこそこの公認会計士である徳重剛がFC KAGOSHIMAというクラブを立ち上げたことも、2つのクラブが切磋琢磨することで鹿児島のサッカー界に活気をもたらしたことも、徳重と湯脇が鹿児島ユナイテッドFCというクラブの誕生に尽力する姿も、ついに鹿児島にJリーグクラブが誕生していく過程も、そこに辻や山田たちがいたことも、すべてを肯定的に多幸感とともに見つめていました。
西さんが現役生活を送った九州リーグからは大分トリニティ(大分トリニータ)、FC琉球、ロッソ熊本(ロアッソ熊本)、V・ファーレン長崎、ニューウェーブ北九州(ギラヴァンツ北九州)が次々とJFLそしてJリーグへと巣立っていきましたし、企業チームからホンダロックSC(ミネベアミツミFC)も、後に解散したプロフェソール宮崎もJFL昇格を果たしました。
強敵ぞろいの九州リーグで、それでも「彼が何かを起こしてくれる」というサポーターの期待を背負った日々をどのように思っているのでしょうか?
「Jリーグを目指すチームが鹿児島にあって、そこでプレーできるということで、本当にまわりの期待を感じて、その作っていこうというモチベーションが非常に高かった。たとえオファーがあっても他のクラブへ行くなんて考えられませんでした。
僕はいつも人生はなるようになると思っているので、その与えられた場所で懸命に生きていくっていうか、正直にそこに向き合って過ごしていくっていうことを大事にしています。
だから今もそうですけど、常に幸せでした」
誰にも負けない、絶対に成し遂げるという覚悟を持ってピッチに立ち続けていた西さんは、得点王を獲り続けた個人としての結果に対して、チームとしてクラブとして報われたとは言い難い自身の現役生活を、それでも幸せだったと言い切りました。
この段階できれいな歴史、過去の話で締めくくれそうですが、西さんと鹿児島とサッカーの物語はまだまだ終わることなく現在までつながっていくのです。
知的障がい者サッカーチームの指導者としての現在
大卒2年目から勤める姶良町(2010年より姶良市)役場では福祉関係を担当していた影響もあり、現役引退後の西さんは障がい者サッカーの道に進んでいきます。
2014年にブラジルで行われた知的障がい者サッカー世界選手権、通称「もうひとつのW杯」を闘う日本トップチームのコーチに就任。
さらに2018年にスウェーデンで予定されている世界選手権に向けた監督に就任します。
強い意志と飽くなき情熱とともに、辛抱強く、しかし楽天的に選手たちに接することができる西さん。
一方でまず地元鹿児島の知的障がい者サッカーを取り巻く環境を見てみると、常設のチームがなく、全国障害者スポーツ大会のブロック予選など大会に向けた選抜チームが細々と活動している状況で、普及という点でも強化という点でも課題がありました。
その課題意識を鹿児島ユナイテッドFCの徳重、湯脇と共有して、2019年に誕生したのが「鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ」でした。
「湯脇さんは本当に視野が広くて私たちの想いを理解してくれて、今があります。それまでは社会人だけで、中学生高校生のうちから選手が入って来ることはなかったんです。そこでみんなが憧れて観ているユナイテッドの一員になれるっていう効果は大きいです」
毎週2回活動するチームがあることで、継続的に選手たちはトレーニングを積むことができるようになり、その環境があることで意識の高くなった選手たちは全体トレーニング以外でも自分のレベルを上げようとトレーニングに励む。
大好きなサッカーをするという軸ができたことで、仕事や勉強にも励む。
20名30名の知的障がい者の若者が、サッカーを通して、鹿児島ユナイテッドFCを通して、1人の社会人として自律する姿があります。
と、口で言うほど簡単なことではなく、若者らしく羽目を外すことはありますし、上手くいかないと集中が途切れてしまう選手もいますし、ついには練習に来なくなってしまう選手もいます。
それでも西さんや泉谷監督や磯田GKコーチ、古薗コーチ、朝木コーチ、石下谷トレーナーたちスタッフは、見放すことなく粘り強く前向きな姿勢を変えることなく、選手たちのピッチ内外での成長をうながし、待ち続けています。
「1年かかっていいからって言うんですよ。そんなすぐにできることはない、1年かかってちょっと成長する、そのくらいのスタンスで私も見守っています。
そうすると変わってくるんですよね、人間って。
障害があるとかないとか関係なくて、その人のペースだったり、それぞれ性格があって、例えば消極的で壁を超えられない選手は背中を押してあげたり、あえて経験をさせたり、そういう関わり方をした。
来なくなる選手もやりたくなったらまた戻ってこれるチームであるように。
だって我々が彼らを見捨てたら、彼らはもう来れる場所がない、社会に戻れないから、どんなことがあっても我々がしっかりとサッカーでみんなを引っ張っていこうと、いつでも帰ってこれる場所であろうと、そういう環境づくりをしています。
(指導者の)みんな、ありがたいですよね。“やってあげてる”とかそういう意識のスタッフはいなくて、みんな“やりたい、いっしょに関わって目標に向かって歩みたい”ってスタンスで、彼らの奮闘にはもう頭が下がりますよ」
選手たちは社会人リーグや県外の大会を通して着実に力を蓄え、原良田龍彦、原田康太、福原碧人、下鶴掛夢と4人の日本代表経験者を擁するまでになります。
昨年10月に地元鹿児島で行われた全国障害者スポーツ大会では優勝を目指すなかで、準決勝で5連覇中の東京都を相手に0-2で敗戦。
それでも気持ちを立て直した3位決定戦は三重県に盤石の試合展開で3-0の勝利。
優勝を逃しましたが、3位という結果を残しました。
明けた3月に行われたクラブ選手権大会では九州勢としても初の全国優勝を達成しますが、「あの大会には東京は若手のチームで臨んでいますから(関東予選で敗退)。やっぱり全国障害者スポーツ大会で勝ってこそなんです」。
東京に勝つことを念頭において迎えた「SAGA2024」。
1回戦は奈良クラブの知的障がい者サッカーチーム「VAMOS」を主体にした奈良県に10-0で勝利。
そして準決勝で東京都との再戦。
トレーニングを重ねた隙を見せない守備で東京の攻撃を防ぎながらも、チャンスと見れば一気に前線へ押し寄せます。
戦略的に準備してきて、思うとおりのゲーム運びでした。
それでも終盤に失点を喫して0-1の敗戦。
「今回、ここまで戦略的にやったことで、今年を踏まえて来年に向けてどうするか課題ができましたので、それはそれでよかったなと。悔しかったですけどね」
日本知的障がい者サッカー連盟の技術委員という役職があるため、翌日は鹿児島が3位決定戦で佐賀県に15-0で勝利するところではなく、決勝で東京都が静岡県に3-0で勝利して優勝するところを見届けました。
鹿児島にとっては高い壁ですが、2026年の開催に向けて調整されている世界選手権に向けた日本代表監督としては東京都の充実ぶりも、同じ関東では神奈川県や栃木県なども強く、全国的にレベルが高まっているのは喜ばしいことでもあります。
そして2030年の世界選手権は日本で開催したいという希望もあります。
フューチャーズに目を移すと、35歳の笹原有世を別にすると、年長組でも20代なかば、鹿児島高等特別支援学校や鹿児島城西高校に在学しながらプレーする選手もいますし、卒業後はフューチャーズに所属する流れができつつあります。
高校卒業後はプレーする場がほとんどなかった時代から普及、強化両面で鹿児島の知的障がい者サッカーの分野は進化をとげました。
そして西さんの想いはフューチャーズにとどまらず、小学校を卒業した女子中学生がプレーを続ける場として「鹿児島ユナイテッドFC姶良Elegant」を立ち上げ、U-12の「姶良Region」という4種チームをサポートし、志ある指導者たちといっしょに平日の夜から週末まであちこちで指導に動き回る日々です。
「自分に足りないところ、抜けているところを補ってくれるから」と各チームで指導されている方々への感謝はつきません。
一方でたくさんの「これをなんとかしたい」という西さんの本気の想いが感じられるからこそ、多くの人たちがいっしょに汗をかいていることもまちがいありません。
鹿児島ユナイテッドFC(現在から未来へ)
西さんは障がい者サッカーだけでなく、鹿児島県サッカー協会の副会長でもあります。
協会の役職があるから、というよりは1人のサッカー人として、鹿児島で生で観られるプロのゲームを通して何かを吸収しようとスタンドに腰掛けます。
9月15日のロアッソ熊本戦はJ2残留に向けた山場であり、九州リーグ時代に対戦した相手でもありましたが、0-2で敗戦するところを観ながら、「もっとやれるはず」という想いとともに、かなり苦しい状況にあると感じました。
そして2試合を残してのJ3降格が決定しました。
「残念ですよ、それは。想像ですけど、前回の轍は踏まないと、クラブ側も考えて色々とやってきて、監督を交代して、補強をして状況を変えようと絶対に降格するのを回避しようという気持ちがすごく伝わってきたので。
でも結果としてこうなった。
それを受け止めて次に向かうしかありませんから」
今週末は19位と順位が確定したなかでシーズン最終戦を迎えます。
西さんご自身も現役時代にあらゆる可能性が絶たれたなかで、シーズン終盤や最終戦に臨む経験をしてきましたが、どのような想いでピッチに立っていたのでしょうか?
「僕らはプロではなかったけれど、遠征費とかはクラブから払ってもらいながらプレーしていました。やっぱり支えてくれる人もいたのだから、応援してくれる人もいたのですから、次に向かって全力を出すことが我々の仕事でした。
だから消化試合とかではなく、変わることはなかったですね。
監督も選手も難しいところはあります。
みんな感情がありますから。
いい時もあるし、悪い時もあるし、気持ちが向かわない時もある。
それでも向かわなければならないんです。
これはやっぱりサポーターに応える試合ですから」
西さんには応援してくれる人がいました。
今より少ない人数でも、1人1人の熱量では負けないサポーターたちがいて、そのうち多くのサポーターは今も鴨池に足を運んでくれていて、さらに何十倍と増えたサポーターが一体になって応援してくれています。
「ヴォルカのあの時のサポーターは今もいますよね。彼らはどんなゲームであってもスタンスが変わらない。一生懸命に選手を鼓舞してくれている。本当にもうどんな悪い時でもそれを受け止めてくれて、ありがたい皆さんだと思います。
ずっと選手やスタッフは入れ替わりながらシーズンを闘い、それを観てこられている。
だからこそ選手やスタッフの皆さんは全部の力を出すんですよ。
この試合で退団する人も変わることなく。
それしかなくて、それをやることです」
西さんの語り口はあくまでおだやかです。
それでも立場はアマチュアでも、支えてくれる人たちの想いを背負って、ピッチの上で闘い抜いてきた男の言葉には静かな説得力がありました。
そんな西さんは、プロを舞台にする鹿児島ユナイテッドFCにこれからどうなっていって欲しいのでしょうか?
「今もコンセプトをもってやっていますが、鹿児島にしかできないビジョンを着実に体現していって欲しいと思いますね。
アカデミーから大多数の選手をトップチームに送り出すという目標は長期的にでもぜひ実現して欲しいと思っています。
もちろん目の前の結果は本当に大事ですけれど、育成のところをしっかりと着実にやって、そうやって育てられた選手がトップの8割とかを占めるようになると、これはもう鹿児島にしかない姿と言えると思います」
サッカーのプレースタイルとしては、ボールを保持して組み立てるサッカー、手数をかけずに前線へボールを送るサッカー、前からボールを奪いに行くサッカー、構えて穴を塞ぐサッカーと色々とありますが、それらはどれもが必要なことという前提の上で「やっぱり点を取ることにはこだわって欲しい」とおっしゃいました。
その点を取るという分野でリーグ戦266ゴールを決めた西さんは、サッカーの中でももっとも特異で重いこのテーマについてどのように捉えてらっしゃるのでしょう。
「プロの人たちに僕が言うことではありませんが。
僕の浅はかな知識やアマチュアレベルの経験で言えば、チームの戦術とか色々とあるじゃないですか。
そうはしながらも相手との駆け引きをしていかなかければならないんじゃないかと思います。
チームの戦術をやりながら、最後はゴール前でフリーにならないといけないんです。
結局相手の守備もやられたくないから本気で来るわけで、それをどうやって外すのかという駆け引きがあって、点につながっていくんじゃないかなと思います」
続けて西さんは今シーズン後半、有田稜選手のプレーについて、駆け引きで相手の予想を上回る意外性があって共感するところがあったと評しました。
そして今シーズンの印象的だったゴールとして、ホーム開幕戦の徳島ヴォルティス戦で武星弥選手の決勝点を挙げました。
「いつもはバックスタンドで観ているんですけど、あの試合はメインスタンドで観ていて、ちょうど自分の視界の延長線上にシュートが決まって嬉しかったです」
もちろんホーム開幕戦での劇的な逆転勝利を決めるゴールだったから、というのもありますが、西さんにとっては武選手のゴールということも大きな要素でした。
「星弥は息子が帰省した時はいっしょに練習したりする仲なんですよ」
西眞之介。
西さんが現役生活終盤を闘っていた2004年に生まれ、小学校卒業後は鹿児島を飛び出しJFAアカデミー福島U-15、U-18へ。
さらに日本を飛び出して現在はドイツ4部のヴッパーターラーSVで、左右両方できるサイドバックとしてプレーしています。
こちらも同い年の神村学園出身、福田師王選手もまた名門ボルシアMGのセカンドチームが4部に所属している関係で、対戦する関係にもあります。
お父さんは鹿児島ひと筋ですが、息子は早いうちに鹿児島を離れて県外、そして海外へ。
その選択肢には引退後の西さんが指導者として日本各地や海外へ赴く機会が多くあり、そこで得た経験やワクワクした感情を家でも伝えてきたことが影響しているかもしれないという考えはあります。
ただ、聞かれない限り息子の話をすることはありません。
「息子は息子で、それは息子の選択だし、自分で決断して切り開いて進んでいることはすごく嬉しいですよ。
キャリアも良いことも悪いこともあるけど、うまくいかなくなってもそれを乗り越えるメンタルも中学校から家族と離れて生活しているし大丈夫じゃないかなと思っています。
やっぱり練習から相当激しいみたいだし、それでもチャンスはいっぱいありますよ。
サッカー以外にも、時間はあるはずだからもう色々と旅はしたほうがいいよとは伝えていて、その通りに視野が広がっていると思います。
むしろ息子の試合を観に行くのが楽しみなくらいでドイツに行きたいんですけど、まだ行けていないんですよね」
選手キャリアの縁には色々な流れがありますが、もし眞之介選手が鹿児島ユナイテッドFCに加わる日が来るとしたら…
「親としてはという部分もありますけど、(前身の)ヴォルカの元選手としても嬉しいですよね」
鹿児島のスタジアムで、手を伸ばせば届くような至近距離に居並ぶタッチライン際のサポーターの前で西眞之介が上げたクロスを、様々な経験を経て成熟した武星弥が中央で合わせてゴールが決まる。
桜島が噴火したかのような歓声がスタジアムを包み、ゴール裏のサポーターが大歓喜するすぐ目の前で2人が抱き合い、咆哮する…
甘く美しい未来予想図は無限に広がりますが、それもやはり「今この瞬間!」に全力を積み重ねてこそ、実現に近づいていくもの。
西さんご自身「やりたいことはまだまだたくさんあって、自分だけではやれないから想いを継いでくれる人に任せたり」と、市役所での仕事をしっかりと果たしながら、夜はひとつひとつの現場で一生懸命にサッカーに向き合って、同時にこれからの鹿児島に何が必要なのかを考えながら前へ進んでこられました。
まっすぐに、揺らぐことない強さと、誰に対しても変わらない真心とともに。
サッカー選手としての現役を引退して17年になりますが、西眞一は過去の人になることなく、現在もより輝かしい未来たちに向かって、その人望でたくさんの人たちの想いを束ねながら前へ前へと進んでいます。
「そんなだいそれた人間じゃありませんよ」と笑顔でおっしゃるかもしれませんが。
ところで。
「西さんの現役時代を観たかった」という声を聴くことが時々あります。
鹿児島の希望を一身に背負ったストライカーは、ピッチ上でどんな姿を応援してくれる人たちに見せてくれていたのだろう。
その姿を観る人たちの心をどんなに熱くしてくれていたのだろう。
偉大なるストライカーを称える思い出話を聞くたびに思いますが、あの時代に戻ることはできません。
今シーズン、当コラムでご紹介してきた鹿児島ユナイテッドFCのOBたちの時代もしかり。
それでも明日の試合を、これからの試合を観ることはできます。
だからこそ、現在鹿児島を背負って闘っている選手たちの、最後かもしれない選手も含めて、その輝きを目に焼き付けて欲しい。
自分自身が試合を、選手たちと共に闘う時間のなかで抱いたすべての感情を大切にして欲しい。
そう願います。
ずっと鹿児島に住んでいるのに、西眞一の現役時代の姿をきちんと観ることのなかった1人の鹿児島県民として。