鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ コラム集
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.17(Total vol.29)」
原良田龍彦選手
鹿児島の知的障がい者サッカーを牽引してきた優しく温かい情熱
※2023年10月21日、クラブ公式サイトに掲載されたものです
10月28日から開催される「燃ゆる感動かごしま大会」。
知的障がい者サッカー競技の鹿児島県代表で、キャプテンを務めてきたのが原良田龍彦(はらだ たつひこ)選手です。
愛称は「タツ」。
サイドでボールを受けると、左利きを活かしたドリブルからチャンスを作り、みずからも積極的にゴールを狙っていきます。
年齢はまだ23歳。
しかし日本代表の一員として、そしてフューチャーズのキャプテンとして、鹿児島の知的障がい者サッカーの発展を語るにあたって、原良田選手の存在を欠くことはできません。
雨上がりで風が強い指宿市山川のヘルシーランド多目的グラウンドでの合宿を訪問すると、みんながジャージなどを着込むなか「寒いですかね?」と笑いながら半袖の原良田選手は、これまでの歩みをお話してくれました。
若き牽引者の熱く温かく優しい想いに、今回はふれてください。
サッカーとの出会い、仲間との出会い
原良田選手は伊佐市大口の生まれ。
地元にサッカー少年団はありましたが、最初やっていたのは空手。
それが小学4年生の時に、昼休みにサッカーをしているうちに友達から、少年団に誘われるようになります。
「親が“空手は個人でするからいい”って言っていたんですけど、サッカーはチームスポーツなので自分がちゃんとやっていけるのか、すごく反対されたんです。でもその時の少年団の監督さんがちょうどお父さんと知り合いなんですけど、“障がいなんか関係ない。本人がやりたいんだったらやらせてくれないか”って言ってくださったので」
こうしてサッカーをはじめた原良田選手でしたが、何事もなく試合に出て、6年生になる頃には左利きを活かしてサイドからチームの起点になって、と活躍するようになります。
中学校でもそのままサッカー部で、みんなと変わることなく3年間プレーしました。
そして進路を決める段階で、運命が動き始めます。
「ちょうど障がい者スポーツのことがたまたま新聞に載っていて、先生から“日本代表を目指してみたら?”と言われて、それから知的障がい者サッカーに入った感じです」
ユナイテッドの前身ヴォルカ鹿児島で活躍した西眞一さんが知的障がい者サッカー日本代表のコーチとして、ブラジルで行われた世界選手権、通称「もうひとつのW杯」に参加していたころのこと。
日本代表という明確な目標を描いた原良田選手は、サッカー部のある鹿児島高等特別支援学校への進学を決めます。
「サッカーをして、就職するためにもがんばりました」
世界を目指した、世界の舞台で闘った
2018年にスウェーデンで行われる世界選手権に向けた日本代表監督に、西眞一さんが就任して、代表コーチには鹿児島の特別支援学校で働く元ヴォルカ鹿児島の泉谷光紀さんが選ばれました。
そして2017年から、高校3年生になった原良田選手は代表合宿に呼ばれるようになります。
「そこ(日本代表)をめざしてやってきたんですけど、いつの間にか、トントン拍子でした。でもいざ最初に代表入りって言われた時は不安もありましたけど、でも選ばれたからにはちゃんとそこに来るまでに色んな人の支えがあってサッカーができているわけで、色々な感謝の気持ちがあったので、もうあとは全力でやるだけだって思ってやりました」
高校を卒業してからは特別養護老人ホームで働きながら、サッカーを続ける原良田選手。
合宿を経て、世界選手権の最終メンバーに残りました。
「でもその段階で結局自分も呼ばれると思っていなかったんですよ。チームの中でも結構ギリギリで、ベンチにも入れるか入れるかも分からなくて呼ばれてって感じだったので。でもチャンスがあれば絶対に結果を残そうって思いました」
西監督のもと、はじめて経験する世界の舞台。
実質8カ国で行われた大会で順位決定戦を含めて5試合を戦い、日本は6位。
最後5位6位決定戦となるロシア戦では、リードを許した延長終了間際に同点ゴールを決めました。
国際舞台でのゴール。
もちろんその嬉しさはありましたが、それ以上に残ったのは悔しさだったようです。
「レベル、高かったです。パワーとか速さとか技術とか。通用してないところが多かったと思います」
原良田選手が得点したロシア戦のハイライト映像や、西監督たちによる丁寧なレポートが公開されていますので、ぜひそちらもご覧下さい。
新しいチームのキャプテンとして
世界の舞台を終えて帰ってきた原良田選手がやがて受け取ったのが「鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチームが創設される」というお知らせでした。
当時鹿児島には学校以外に知的障がい者が日常的にサッカーをできる場はなく、障害者スポーツ大会に向けた選抜チームなどが活動しているだけでした。
その状況を変えたいという日本代表監督でもある西さんたちの想いと、鹿児島ユナイテッドFCとの想いが合致して、2019年から「鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ」が発足することになりました。
それは原良田選手にとって純粋にうれしいものでした。
「練習や試合でユナイテッドのエンブレムが入ったユニフォームを着るっていうのは、すごく嬉しかったですよ」
チームとしても毎週金曜日の夜に全体練習、週末は公式戦や練習試合ができる環境。
左胸には鹿児島のプロサッカークラブの一員であることを示すエンブレム。
まだ10代の原良田選手が、初代キャプテンとなります。
しかし、すべてが一気に変わったわけではなく、練習にはなかなかメンバーがそろいません。
健常者の鹿児島県リーグである「さつま揚げの薩摩家カップ KFA社会人サッカーリーグ」でも実戦経験を積み重ねていきますが、二桁失点を喫するなど結果が出ません。
指導者たちが選手兼コーチとして社会人リーグのピッチに立ち、プレーで牽引することで少しずつ戦況は好転していきますが、ピッチ内外ですべての進歩は少しずつ少しずつ。
「(キャプテンは)難しいです。みんなが落ち込んでいる時とか、自分も感情をコントロールするのは難しかったりして。なかなかこう思うようにチームを前向きにしたりとか、難しいです。今でもそうですけど。勝てない時も、チームのことだったら、もっとこうすれば良かったとか試合後に思ったりして」
それでも選手たちはひたむきに前向きにサッカーに取り組むようになっていきます。
毎週トレーニングがあって、週末に試合があることで選手たちは1週間の生活にリズムが出てきて、それぞれの仕事や学業にも良い影響が出てきていました。
さらに西総監督や泉谷監督たちが丁寧にピッチの上でサッカーの技術や戦術を教えて、ピッチを離れたところでも「自律(自立)した社会人になる」という理念に基づいて粘り強く指導し続けることで誰もが選手として人間として成長を遂げていきました。
鹿児島ユナイテッドFCとなったことで2019年10月20日、初のJクラブ知的障がい者サッカーチーム同士として横浜F・マリノス「フトゥーロ」と、ホームゲーム前に交流試合を実施。
原良田選手もゴールという結果を残します。
そして2019年12月7日、横浜F・マリノスがJ1優勝を決めた最終戦の前座試合では、フトゥーロとの交流試合が行われました。
「緊張しましたよ。ものすごく大きなスタジアムで、お客さんもたくさん入っていて」
プロでも平常心ではいられないような場所で、貴重な経験となりました。
2020年から世界はコロナ禍になり、鹿児島で予定されていた特別全国障害者スポーツ大会は3年後に延期されましたが、フューチャーズの選手たちは前向きにサッカーに取り組み続けます。
2022年の世界選手権に向けた代表合宿に原良田選手は選ばれ続け、他にもフューチャーズから選ばれる選手たちが出てきました。
県5部リーグでは上位そして昇格を狙えるようになり、知的障がい者の大会へ遠征した際にも上位の結果を残し続けます。
原良田選手はプレーの面でも徐々にまわりを支える側になり、4年前より成熟した選手として、ずっと目指していた「世界に再挑戦」の舞台はもうすぐそこ、のはずでした。
幻となった2022世界選手権を経て
2022年6月、フランスで予定されていた世界選手権。
フューチャーズからは原良田選手のほかに、GKの原田康汰選手とMFの福原碧人選手が代表入りを果たしました。
ところがコロナ禍と世界情勢の影響により、世界選手権そのものが中止となってしまったのです。
4年に一度の大会がなくなり、その代替えとして開催予定地フランスへの遠征と、フランス代表との2試合の国際親善マッチが決定しました。
2試合を通してフューチャーズと共通する「全員攻撃・全員守備」を掲げる日本代表が強豪国とどのように闘ったのかは、西監督のレポートとYouTubeに残されている公式映像をご覧下さい。
この2試合、チームメイトの原田選手と福原選手はスタメンで出場した一方で、原良田選手は終了間際に出場するにとどまりました。
「(世界選手権が中止になったことは)悔しかったです。でもなんか自分的にはコンディションが悪くてなんか挫折したというか、気持ちもどうしたらいいのか、なかなかうまくいかなくて悩んでいましたね。チームでもいい感じでプレーできなくて、自分のプレーってどんなプレーだったっけ?みたいな感じで」
この時期、原良田選手はポジションをサイドバックに変え、後方からチーム全体のバランスを見ながら攻撃もサポートする役割を担うようになっていました。
技術、脚力、戦術理解に秀でた原良田選手はしっかりと役割を果たしている一方で「なんか昔のほうがもっと生き生きしていたんじゃないかなとか。でもまあそれは比べても仕方ないよなって、ポジションも違うし」と逡巡するところはありました。
キャプテンとして、1人の選手として、人一倍悩みもがきながら、それでも原良田選手は前へ進み続けています。
そして2023年10月28日から、霧島市国分運動公園で「燃ゆる感動かごしま大会」の知的障がい者サッカー競技が行われます。
「地元なのでやっぱりこう特別な想いはあります。家族とか知っている人たちも見に来るかもしれないですし、しっかり恩返ししたいです」
初戦は北海道・東北を代表する札幌市、準決勝は5連覇中の絶対王者としてシードされた関東代表の東京都。
道のりは険しいものですが「目指すは優勝ですよね」と言い切りました。
好きなサッカー、楽しいサッカーだからこそ、自分のためにも
原良田選手は4年間務めた前職から「ひとつの区切りだし新しい挑戦をしたかったから」と、仕事を変えました。
平日の午前は女子サッカー「ミゴカリッサ鹿児島」といっしょに自主トレーニング、時にはフューチャーズスタッフの石下谷剛さんのもとでトレーニング。
午後3時から12時まで田上にある「鹿児島温泉時之栖」の職場で、番台の受付をしたり、大浴場や家族風呂の掃除をして。
部屋に帰って、寝て、起きて、また練習で週末はフューチャーズの活動。
その繰り返し。
33歳にしてなお現役を続けるチームメイトの笹原選手といっしょに。
さすがに疲れが溜まっている時は「仕事休むわけにはいかないので」と自主トレは休みますが、その基準は明確で、まさにフューチャーズが目指す「自律した社会人」そのものです。
そして全国大会が終わった後は「鹿児島温泉時之栖」と同じ系列のスポーツ事業部へ異動することが決まっています。
幼稚園や療育施設など様々な場所で、サッカーを中心にした指導者の、まずは補助スタッフから始めることになります。
その進路には子どもの頃から親しんできたサッカーへの想いが詰まっていました。
小学生の時、空手をやっている時はあんまり友達って少なくて、サッカー少年団に入ってからはチームメイトとかいて、同級生先輩後輩もいて、そこで仲良くなったりとか、そういう人との関わりが増えてきたので。
サッカーをすることによって色んな人と仲良くなったりしてすごい楽しくて、それが結果、今も続いて、将来こういう仕事をしたいっていうのがあります。
そのきっかけがお世話になった指導者に出会ったっていうのもあるので、サッカーの指導者になりたい気持ちがあります。
良い指導者たちとの良い出会いが、1人の選手を人間としても育ててくれて、やがて指導者を志す想いへとつながっていく。
まさに日本サッカーの発展の歴史に通じる流れです。
現在、23歳。
もちろん次の世界選手権を目指す気持ちは強いものがありますし、笹原選手のように末永く選手として続けていたいという想いもあります。
鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズは5年目を迎えました。
今では多くの若者が所属していて、選手としても人としても成長し続ける姿を見ることができます。
若き知的障がい者サッカー選手たちにとって「鹿児島ユナイテッドFC」という明確に目指すものができたことで、日本代表すらも現実に手が届く存在となっています。
フューチャーズはピッチ内外で偉大な成果を挙げてきました。
この成果は日本代表経験者として、1人の選手として、キャプテンとしてピッチ内外でみんなを牽引してきた、原良田龍彦という選手を抜きに語ることはできません。
来週から彼らの全国大会が行われますが「障がい者のサッカーってどんなものなんだろう」という想い(ある意味の好奇心)はきっと裏切られるはずです。
あまりにも「普通」にサッカーだから。
障がい者サッカーにも電動車いすやブラインドなど様々な種目があり、特徴がありますが、知的障がい者サッカーは、言われなければ、あるいは言われても分からないほど「普通」にサッカーをしている姿が見られます。
試合以外の場面でも選手たちはきびきびと動き、ベンチの選手たちも各々の役割を果たそうとしています。
普段ユナイテッドのエンブレムを胸にプレーする選手たちが、鹿児島県代表としてプレーするひたむきな姿をぜひご覧下さい。
彼らの姿を見ていると、皮肉にも時には強固な障壁を築いているようにも映る「障がい者と健常者」という区分けとは何なのか?ということまで思わず考えてしまう人もいることでしょう。
後進の指導という道に進もうとしている原良田選手はその象徴かもしれません。
ところで。
原良田選手についてどうしても気になることがありました。
プレーでの悩みも影響しているのかもしれませんが、地元開催の全国大会を、馴染みある友達や家族の前で闘える喜びや昂り以上に印象的なのは、牽引者としての重圧でした。
最近は代表の強化合宿に選ばれないこともあり、迷いを抱えているようにも見えました。
うまくいかない時でも簡単に諦めたり、誰かのせいにするのではなく、自分に矢印を向け続け「自分がなんとかしなければ」「でもどうすればいいのか」と、もがいて悩み抜く性格でもあります。
けれど、小学生の時にサッカーと出会い、楽しくて楽しくて、好きで好きでたまらず今でも続けているサッカーなのだからこそ、これからもサッカーを好きでいて欲しい。
サッカーを楽しんで欲しい。
チームのために、みんなのためにという責任感を置き去りにすることは絶対にない原良田選手だからこそ、あえて。
誰のためでもなく、自分のために。
そんな気持ちも忘れずにサッカーを続けていって欲しいと願ってやみません。
何より指導者も、チームメイトも、応援する誰もが「チームスポーツとしてのサッカーを全力で楽しむ」原良田選手であって欲しいはずです。
お話が終わって、原良田選手からメッセージが届きました。
チームのこともですけど、自分がサッカーを楽しまなきゃですもんね!
自分を信じて、サッカーを楽しんで、優勝を掴みに行きます!
大会を控えたトレーニングマッチ。
ペナルティエリア内でボールを受けると、ドリブルでひとりかわして、そのまま角度のないところから鮮やかなシュートを決める姿がありました。
タツくん、これからもたくさん全力でサッカーと人生を楽しんで下さい!
ユナイテッドファミリーとして応援しています!
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.18(Total vol.30)」
下鶴掛夢 選手
熱く爽やかに健やかに描かれる掛夢の軌跡と「燃ゆる感動かごしま大会」の3日間
※2023年11月3日、クラブ公式サイトに掲載されたものです
トップ下の位置でボールを受けると相手のプレッシャーを軽やかなターンでかわして、右に左にボールを供給。
浮き球もさりげないタッチで近くの味方へパス。
再びボールを受けると、左足で打つと見せかけて密集地帯をすり抜けて、そのまま右足でゴール!
今度は遠い位置から左足のミドルシュートでゴール!
…どっち利きなんだろうと思っていると左利きのようです。
と書き連ねていると、どことなくユナイテッドの端戸仁選手と重なるところがありますが、今回の主役は鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」に所属する下鶴掛夢(しもづる かいむ)選手です。
10月28日から30日にかけて霧島市国分運動公園で行われた特別全国障害者スポーツ大会「燃ゆる感動かごしま大会」を終えたばかりの掛夢選手は人懐っこい笑みを浮かべながら、これまでの歩みを振り返ってくれました。
フューチャーズとの出会い
前回の当コラムに登場したキャプテン原良田龍彦選手と同じように、掛夢選手と弟の日楽選手も伊佐市の出身。
4歳年上の原良田選手は「小さい頃、いっしょに公園でボールを蹴っていたんですよ」と言いますが、本人は「そう言われるんですけど、憶えていないんですよね」笑。
地元のクラブチームで、小学2年生の時からサッカーをはじめます。
「小学校の時はサイドハーフとかやっていました。ドリブルが得意で、ネイマールに憧れていて」
中学校に進学してからも同じクラブチームで、やはり左利きあるあるかもしれませんが、サイドバックも経験したりしながらサッカーを続けます。
中学3年生の時に所属チームが阿久根市のパルティーダ、中原秀人選手やユナイテッドOBである中原優生さんを輩出した強豪クラブに統合されたことで、レベルの高いサッカーを経験するようになりました。
そしてもうひとつ大きな出来事が、知的障がい者サッカーチーム「鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ」の創設。
当時の掛夢選手にとってユナイテッドは、そこまでなじみのあるものではありませんでしたが、3歳下の弟、日楽(ひら)選手がフューチャーズ監督の泉谷さんが教える学校に通っていて、その流れで誘われていっしょに参加することになったのです。
「土のグラウンドで練習することが多かったんですけど、フューチャーズは人工芝とかいい環境で練習できるのが多かったので、それもあって入ってみようかなって」
中学生でまだ公式戦に出場することはできませんでしたが、週末の練習試合などにも積極的に兄弟で参加して、年上の選手たちといっしょにサッカーをしていました。
進路は迷うことなくサッカー部が強い鹿児島高等特別支援学校へ進学。
サッカーと勉強、就職をしっかり考えた上での判断でした。
特別支援学校とフューチャーズの両方で飛躍する
学校では全国大会常連のサッカー部で月曜、火曜、水曜、木曜と練習。
金曜夜はフューチャーズで大人たちに混じって練習。
週末はフューチャーズや部活でその時々に応じて活動。
さらにフットサルにも手を出すというか足を出すというか、とにかく掛夢選手はあちこちで忙しくボールを蹴りまくり、高校1年生から2年生になる頃には徐々に身体も大きくなってきて、サイドからドリブルで中にカットインしてのゴールを積極的に狙います。
さらに中学3年生の時に違うポジションを経験したことで得た課題を克服するために、コツコツと努力を重ねていきました。
「その頃にボランチをしていたんですけど、左だけじゃ結構展開するのが難しくて、右足使えないと結構不利だなと思って」
誰に言われるでもなく、自分でそう感じて。
右足でボールを扱う練習をずっと続けた結果、シュートのように強く蹴る時には左足の方がいいという感覚はありますが、右足でのプレーもさほど苦にしない水準まで向上させました。
右足でも蹴れるようになるというテーマを自分で設けると、着実にそこへ向かっていく。
掛夢選手はそうやって、部活でもフューチャーズでも頭角を表すようになっていきます。
フューチャーズでは、健常者の鹿児島県社会人リーグである「さつま揚げの薩摩家カップ」で、コーチたちも交えてレベルの高い場所でプレー。
知的障がい者の大会としては、ジヤトコカップのような全国から集まる大会や九州リーグなどに出場。
この頃にはトップ下でのプレー機会が中心になっていきました。
その頃には「日本代表」も現実的な目標として描き始めていました。
とはいえ鹿児島では、フィールドプレーヤーでは原良田龍彦選手がただひとり代表候補合宿に参加できている、それが現状でした。
「(原良田選手は)フィジカルがすごくてシュートのパワーもあって、すごくレベルが高い選手だって思いました」
中学3年生、高校1年生の頃は遠い存在だった原良田選手のいる世界が、手の届かない場所ではない、届きうる世界なんだと感じられるようになっていました。
世界の舞台を知るチームメイトと日常的に接することで、具体的な距離感を体感できる。
フューチャーズというチームがあること、原良田龍彦という先駆者がいることで、掛夢選手に限らず鹿児島の知的障がい者サッカーのレベルはめきめきと上がっていました。
2022年6月、鹿児島から原良田龍彦選手のほかに原田康太、福原碧人の3人が参加する予定だった世界選手権が中止になり、代わりにフランス国際親善マッチが行われました。
その後、栃木県で行われた全国障害者スポーツ大会「いちご一会とちぎ大会」では初戦敗退という悔しい思いをしますが、12月に行われた「全国知的障がい者サッカークラブ選手権~ジヤトコカップ2022~」では先輩Jリーグクラブである横浜F・マリノス フトゥーロや静岡県選抜に勝利して、初めてのタイトルを獲得。
3試合で6ゴールを決めた掛夢選手が得点王とMVPに輝きます。
部活としては最後の舞台になる2023年2月に行われた「もうひとつの高校サッカー選手権2022」にキャプテンマークを巻いて出場。
「取れると思っていたし、取るつもりで挑みました」
フューチャーズのスタッフでもある古薗功詞郎さんが外部コーチとして課す、ハードなメニューにしっかりと向き合ってきたことが自信の土台となっていました。
大会では接戦もモノにして鹿児島として初めての決勝進出。
決勝でも掛夢選手のゴールなどで3-0で初優勝を達成して、最高の形で高校生活を締めくくりました。
「もうひとつの高校選手権2022」は鹿児島県立鹿児島高等特別支援学校が初優勝|JFA|公益財団法人日本サッカー協会
燃ゆる感動かごしま大会で彼らが示したもの
高校を卒業して幼稚園に就職した2023年、やはり目指すのは地元開催となる「燃ゆる感動かごしま大会」の優勝でした。
現役高校生も含めて選手全員がフューチャーズ所属として迎えるかごしま大会。
指宿市山川での強化合宿、会場である霧島市国分運動公園で1回戦と同じ時間にキックオフするトレーニングマッチなど、できる限りの準備をして本大会に臨みます。
「去年の栃木大会で負けてから、1年間ずっと優勝を目指して準備してきたので、結構自信はありました」
10月28日の1回戦。
やや日差しの強いバックスタンド側には多くの観客が集まっていました。
中には鴨池で振っているユナイテッドの大旗を持参するサポーターも。
1回戦の対戦相手、北海道・東北代表の札幌市は、大会前に行われたジヤトコ杯で敗戦していた相手であり、日本代表経験者も擁する強敵です。
押し込まれる序盤。
30分ハーフの短期決戦では、先制点が大きく響きますが、鹿児島の選手たちは懸命に耐え凌ぎ、札幌市の攻勢をひと通り受け止めきると、徐々にリズムをつかんでいきます。
そして―――
右サイドの突破から札幌ペナルティエリア内に入ったボールは、札幌市がクリアしきれずに、こぼれます。
そこに現れたのは…掛夢。
すばやくボールを収めると、左足を振り切ったシュートがネットを揺らして鹿児島が先制!
掛夢は一気に大歓声に包まれたバックスタンドの観客席へ駆け寄ります。
「やばかったです。自分的にも鳥肌立ってたし、ホームだったし、1点目っていうのもあったんで」
次々と駆け寄ってくるチームメイトの祝福を受けながら、両手を脇に挟むフランス代表エムバペのポーズを披露。
「コーチと“ゴール決めたらなにする?”って話をしていたんですけど、決められなくて。その場の思いつきで」
掛夢のゴールで会場とチームが一体となって勢いに乗った鹿児島は後半、日本代表ボランチ福原碧人のミドルシュートで追加点。
さらにサイドハーフの梛木夏樹が俊足を活かして、裏に抜けてのゴールで3点目。
途中からサイドに入った弟の日楽も、あわやの場面を作って会場を沸かせます。
鹿児島は1回戦を快勝し、準決勝進出を決めました。
そして観客席では、試合途中から幼稚園児の姿があり、最前列まで出てきた園児たちが「かいむせんせー」と呼びかけながら、小旗を振っていました。
試合後、掛夢は職場の幼稚園に通う園児や先生たちと交流しながら「みんなにサッカーをする姿を見せられてよかったです」と次への気持ちを新たにしていました。
「燃ゆる感動かごしま大会」知的障がい者サッカー競技1回戦(10/28) – 鹿児島ユナイテッドFC オフィシャルサイト (kufc.co.jp)
10月29日、準決勝。
対戦相手は5連覇中、6連覇を目指す関東代表の東京都。
1回戦よりもさらに増えた観客の前ではじまった試合は、東京が落ち着いたボール回しで鹿児島陣内へと攻め込みます。
鹿児島がボールを奪ってもなかなか前線の掛夢たちがボールをキープする時間を作れません。
前半8分、ゴール前でこぼれたボールを押し込まれて東京が先制。
21分にセットプレーから東京が追加点。
絶対王者を相手に前半で2点のリードを許した鹿児島。
「やっぱり勝てない」と気持ちが萎えて、ずるずる失点を重ねても仕方のないことでしたが…
「壮行会の時とか(フューチャーズ総監督の)西さんが“苦しい時こそ上を向いて、鹿児島の空を見よう、それを見てまたリセットして”みたいなことを言われてたので、点を決められてから1回、みんなで声をかけて、空を見て切り替えられました」
ここからの約40分、鹿児島は東京相手に一歩も引くことなくボールを奪うために走り続け、奪ったボールをどんどん前線へ送り、掛夢もチャンスを作って…。
最終スコアは0-2。
お互いに一歩も引かない激戦の末でしたが、鹿児島が敗戦しました。
優勝の道は途絶え、最終日は3位決定戦に回ることとなりました。
「東京に負けた後みんな泣いてたんですけど、もう自分も点を取れなくて悔しくて涙が出ました。ゴールにはこだわる方でしたから。でも負けた日の夜から、もう3位決定戦のことに意識を変えて、もう絶対メダル取って最終日終われるようにって自分も、チームみんなとしてもそんな感じでした」
キャプテン原良田も「負けた結果は変えられないから、絶対に3位決定戦を勝つ」と、気持ちを切り替えています。
彼らの真っ直ぐな情熱はいささも衰えていませんでした。
「燃ゆる感動かごしま大会」知的障がい者サッカー競技準決勝(10/29) – 鹿児島ユナイテッドFC オフィシャルサイト (kufc.co.jp)
そして30日、三重県代表との3位決定戦が行われるのは陸上競技場からさらに坂を登ったところにある多目的広場。
鹿児島高等特別支援学校の後輩たちや、他の学校の生徒たちも応援に駆けつけ、すぐ近くで700名もの観客が見守る熱気に、会場は包まれていました。
試合前に円陣を組んだ選手たちは昨日2失点目を許した時のように、全員で上を見上げて、ふるさと鹿児島の空を心に刻んで、そして試合に入りました。
序盤からスタンドの大声援を受けた鹿児島が優勢な展開。
日本代表経験のあるGK原田康太、前線から左サイドバックに転向したキャプテン原良田龍彦を中心にディフェンス陣は危なげなく守り、ボールを奪い、前へ供給します。
1回戦に続き、梛木夏樹のゴールで鹿児島が先制!
咆哮しながら観客席のほうへと梛木は駆け寄り、ハーフウェイラインを超えてGK原田たちも駆け寄って、一体となってゴールを祝福します。
直後にも梛木がペナルティエリア前から豪快なシュートを決めた、跳躍してクリスティアーノロナウドをやった!と思いきやオフサイドで取り消し。
それでも鹿児島の勢いは衰えません。
前半終了間際に梛木のパスを受けた掛夢はドリブルでペナルティエリア内に侵入すると、踊るようなステップとボールさばきでGKとディフェンスをかわして、そのまま右足でゴールへ流し込みます。
「大会前の金曜日にスタッフを交えて紅白戦をやった時に決めたイメージがあって、そのままイメージ通りでした」
イメージ通りのゴールだけれど、今回もゴールパフォーマンスは用意しておらず、それでも高々とジャンプしながら拳を突き上げました。
後半、高い位置でボールを受けた掛夢は「GKが前にいるのが見えていたから」と頭上を狙ったシュートを打ち、三重GKの手は届いたけれど、防ぐまではいたらず、鹿児島が3点目!
ゴールを決めた掛夢は後輩たちの前に駆け寄り、そしてカメラに気づくと、カメラ目線の“エムバペ”ポーズ。
大歓声に包まれた鹿児島は、大量リードにも緩んだ姿は見せません。
フューチャーズでもほとんど出場機会のなかった選手は、前後左右に走り回りながらセカンドボールを回収して、大柄な相手にも恐れず立ち向かい続けました。
能力は高いけれど、うまくいかないと気持ちが途切れがちだった選手たちはこの3日間通して、最後まで相手ボールに食らいつき、球際ではマイボールにしようと懸命に足を伸ばし続けました。
大会前まで別メニューで調整していた選手は、それでも3日間、身体を投げ出して相手のチャンスを潰し続けました。
ベンチの前では来ないかもしれないけれど、いつ出番が来ても対応できるようにアップを続ける控え選手たちの姿がありました。
日本代表経験のあるキャプテン原良田、福原、原田たちは終始隙のないプレーを披露し続けました。
飽きることなく3点目4点目を狙う掛夢はトップ下から前後左右に動きながらボールを受けてはさばき、決定的な場面に顔を出し続けました。
ボールをつなぐ、運ぶ、シュートする、ボールを蹴り出す、走る、諦めない、カバーする、ピッチに立った11人が最高の集中力でプレーし続けてました。
3日間の間に、この1試合の間にも進化する鹿児島代表、鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの選手たち。
試合が終わるのが惜しまれるほどに、たくましいプレーを見せ続け、全国3位を勝ち取るホイッスルを迎えました。
「目指すのは優勝だったので納得はしていないです」
それでも3日間で3試合を戦い抜き、3位のメダルを獲得した鹿児島代表の選手、スタッフは大きな笑顔でかごしま大会を終えました。
※11/1泉谷光紀監督 総括追記「燃ゆる感動かごしま大会」知的障がい者サッカー競技3位決定戦(10/30) – 鹿児島ユナイテッドFC オフィシャルサイト (kufc.co.jp)
楽しい夢が描かれる未来たちへ
サッカーチームとしての活動にオフはあっても、仕事のオフが重なるとは限りません。
大会を終えた翌日、掛夢選手はいつものように職場で仕事をしていました。
高校1年生の時に企業の面接会があった際に、唯一参加していた幼稚園の面接を「子どもたちと遊ぶのが好きだから」と受けた掛夢選手は高く評価され、2年生から研修として幼稚園に通い、高校を卒業した今年、就職しています。
自動車免許は取得中なので、バス通勤。
園内の清掃をするほかに、室内外で先生のサポートとして子どもたちといっしょに過ごしている日々に充実しています。
そしてサッカーのほうでも、今年から福原選手とともに日本代表候補に入り、強化合宿に参加しています。
技術、フィジカル、戦術理解、あらゆるところで日本代表のレベルの高さは感じていますが、やっていけないレベルではないという感覚もあるようです。
まだキャリアははじまったばかりで具体的なイメージではありませんが、いつかは「指導者として子どもたちにサッカーを教えたい」という願いも抱いています。
掛夢選手は、未来への希望に満ちていました。
フューチャーズが発足して5年目になりました。
唯一の代表経験者である原良田龍彦選手がキャプテンとして精神的支柱として牽引してきたチームは、指導者たちが辛抱強く選手たちを信じて成長をうながしてきた今、原良田選手とともにチームを支えるべき第2第3の柱が着実に育まれています。
下鶴掛夢や福原碧人はその象徴と言えるでしょう。
また他の選手たちも支えてもらうだけでなく、1人1人が自立した選手として、それぞれの個性を活かしてチームを支えられる存在へと成長しています。
かごしま大会の3日間で選手たちが見せた姿は、その良い流れがより確かなものになっていることを感じさせてくれるものでした。
チームが発足したばかりのころ、フューチャーズ総監督で日本代表監督でもある西眞一さんはフューチャーズがめざす理想のことを「30年後40年後かもしれないけど」と前置きしながら、やさしく語ってくださいました。
「フューチャーズの選手たちが健常者と変わらず、健常者のチームでプレーするようになっていって欲しい。そしてフューチャーズは今いる選手たちより、もっと重い障がいがある選手たちの居場所になっていって欲しい」
その未来では、ひょっとしたら原良田龍彦コーチが鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの指導者を務めているのかもしれません。
掛夢先生が、鹿児島ユナイテッドFCのスクールに通う子どもたちにサッカーの楽しさと基礎を教えているのかもしれません。
そのことを保護者もサポーターも選手も子どもたちも誰も彼もが、なんの違和感も抱くことがない未来。
「原良田コーチは悩んでいる選手のことにもよく気がついてやさしくしてくれるコーチ」
「掛夢コーチはむちゃくちゃ上手くて明るくて子どもたちの心をつかむのがうまいコーチ」
ただそれだけの存在になっている未来。
今のフューチャーズを通して浮かんで来る未来たちはとても明るく、掛夢選手も未来への希望に満ちていました。
追記
11月4日、下鶴掛夢選手は19歳になりました。
お誕生日おめでとうございます!
これからも掛夢選手とそのまわりにたくさんの笑顔があふれることを願っています!
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.31(Total vol.43)」
泉谷光紀さん(鹿児島県立武岡台特別支援学校教員、鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ監督、知的障がい者サッカー日本代表コーチ)
※2024年8月2日、クラブ公式サイトに掲載されたものです
「3つ伝えたいとしても、一度に3つ伝えたら理解することが難しいので、どれがその子にとって一番優先して伝えるのがいいのかを考えて、シンプルに短く伝えるっていうところですね。根気強く」
知的障がい者サッカーの選手たちを指導するにあたって心がけていることをたずねると、返ってきた答えです。
これは障がいに限定されることではなく、教育現場における普遍的で模範的な姿勢なんじゃないかと思えるものでした。
泉谷光紀さんは鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」の監督で、本業は鹿児島県立武岡台特別支援学校の教員。
この日もフューチャーズの指導者として鹿児島県サッカー協会の会合に参加した後に、近くのカフェにお越しいただきました。
嫌な顔はもちろん、疲れた顔ひとつ見せず、うかがわせず。
夜とはいえ閉店までまだ2時間あるので、じっくりとお話ができそうです。
サッカー選手として
大阪府に生まれ育った泉谷さんは中学時代をガンバ大阪堺ジュニアユースで過ごします。
ずっと高いレベル、プロをめざしていましたがその想いが本気に変わったのは高校3年生の時。
大阪府立堺東高校から、ガンバ大阪やセレッソ大阪のユースや強豪高校サッカー部から構成される、大阪府の国体少年サッカーの代表に選ばれたのです。
自信をつけた泉谷さんは高卒のプロは難しいとしても大学経由でプロになること、そして競技を終えてからもサッカーに携わることを考えて大学を選びます。
「プロになるには全国大会で活躍しないと難しいと考えると関西はどこが勝つか分からない。当時、中・四国は高知大学が強くて、九州では福岡大学と鹿屋体育大学が強くて、そのなかで鹿屋体育大学は芝のグラウンドでできるということと、教員免許が取れることが自分にとっては魅力でした」
当時の監督は井上尚武さん。
九州学生リーグではみずからバスを運転して、アウェイの地で指揮を取って帰りのバスも運転して、練習前には選手より早く来て芝生の手入れをして、S級ライセンスを取得するほどの情熱あふれる指導者です。
そんな井上監督のもと、手術するほどの大怪我で苦しんだ時期もありましたが、サイドバック、センターフォワード、センターバックと様々なポジションで試合に出続けて、入学前の青写真通りインカレや総理大臣杯など全国大会出場の実績を重ねていきます。
大学4年生になった泉谷さんはJリーグクラブや、Jリーグ入りを目指すクラブへ練習参加や選考会に参加して、最終的にJFLからJリーグへの入会が決まったばかりの愛媛FCへの加入が決まりました。
競技としてのサッカーでもがく
愛媛FCで念願のプロサッカー選手になった泉谷さんでしたが、負傷の影響もあってなかなか試合に出場する機会を得られません。
「監督とかは焦らずにリハビリしようって言ってくださってたんですけど、めっちゃ焦るじゃないですか。それで復帰して、でもまだ良くなくて離脱して。結局プレーできるようになったのは5月。本当に力があれば這い上がっていけるんだろうなと今は思います」
チーム練習に復帰してからも同じポジションにJ1からのレンタル加入もあり、最後まで試合に絡めないままシーズンを終えます。
そして1年で契約満了となりました。
「試合に1試合も出られなかったけど、プロになるという夢ではなくチームで活躍することを具体的に描いていればまた違ったのかもしれません。だから自分のなかでプロになったという実感はあまりないんですよね。ピッチに立ってプレーして初めてプロ。その想いがずっとあります」
愛媛FCを退団後はカマタマーレ讃岐へ移籍します。
当時チーム名を変えて、プロ契約選手を入れて、四国リーグからJFLそしてJリーグ入りをめざしていた時期です。
蛇足ですが当時のカマタマーレ讃岐は泉谷さんとは同い年で、後に鹿児島ユナイテッドFCトップチームでコーチを務めた森田栄治さんも活躍していました。
讃岐では多くの試合に出場し、2008シーズンにはリーグ優勝を果たすなどチームは躍進しますが、JFL昇格を果たすことはできず。
また負傷で出場機会を減らした2009シーズンのリーグ戦が終わった後にFC大阪への期限付き移籍を経て、讃岐を契約満了となります。
その段階で26歳の泉谷さんは、サッカーを続けることに加えて、次の道を視野に入れていました。
「JFLによるトライアウト1本だけ受けに行って、それでいい話があれば考える。それがなかったら鹿児島に行く」
当時付き合っていた鹿児島出身の彼女さんに「競技として選手をとことんやらせて欲しい。選手生活が終わったら鹿児島で教員になる」と約束していたからでした。
泉谷さん自身のご実家は妹さんが結婚後もそばにいてくれていましたが、彼女さんのご実家の状況的に自分が寄り添っていたいという想いがあっての約束です。
サッカー選手としてのキャリアにひと区切りをつけた泉谷さんにとって、2度目の鹿児島生活がはじまりました。
教員としてJを目指す鹿児島の選手として
鹿児島に帰ってきた泉谷さんは、南薩養護学校(現在は南薩特別支援学校)の臨時採用で教職員としての道を進みはじめました。
今の立場からすると当然の職場に映りますが「あくまでたまたま臨時で採用があったから」。
2010年春に着任してから夏の正規採用試験まで仕事をしながら勉強をする日々。
そしてこの年の合格には至りませんでしたが、採用試験が終わったタイミングで再びピッチに帰ってきます。
「もともと愛媛を退団した頃から関係者から話をもらっていて、それでプロとしてのサッカーが終りを迎えたら第二の故郷で教員を目指しながら、自分が少しでも力になることができればいいなと思っていたので」
こうして泉谷さんは鹿児島からJリーグをめざして九州リーグでプレーしていたヴォルカ鹿児島に加入します。
とはいえ職場はあくまで南さつま市。
毎日仕事が終わって鹿児島市に移動してサッカーをしてという生活は、片道1時間の運転と2時間弱のトレーニングが本業に乗ってくるわけで、タフでないと耐えられるものではありません。
それも、嫌な顔ひとつ見せず丁寧にやりきるのが泉谷さんです。
2010シーズン、九州リーグは昇格1年目のHOYO(現ヴェルスパ大分)に優勝を許して2位。
2011シーズン、HOYOが2連覇を達成して、ヴォルカと同じく鹿児島からJリーグをめざすFC KAGOSHIMAが昇格1年目にして2位に入り、ヴォルカは3位。
HOYOがJFLに“卒業”した2012シーズン、FC KAGOSHIMAが鹿児島県勢として1986シーズン以来となる優勝を果たします。
鹿児島実業を全国制覇に導いた赤尾公や本城宏紀といった実績ある選手を多く擁するヴォルカでしたが、2位で涙を飲みます。
その間、センターバックのなかで途中出場での守備固めや、逆にパワープレーで局面打開を担う事が多かった泉谷さんですが、このシーズンで現役を引退しました。
「一番は採用試験で3回落ち続けたことです。やっぱり土日もちょっとは勉強できますけど、サッカーに割く時間が中心になります。それで自分には子どもがいたし、やっぱりどこかで本気になってやらないと受からないと思っていました」
サッカー選手の多くは思うようなプレーができなくなってきたり、納得する契約を提示するクラブと出会えないことで引退を決意していきますが、泉谷さんの場合は明確にこれからめざすものがあり、そのためにサッカー選手を辞めるという決断に至りました。
第一線を退いた泉谷さんですが、ここから次なる人生、次なるサッカー生活が待っていたのです。
障がい者サッカーとの出会い
過去3回、泉谷さんは高校の体育教員、そして部活で指導者をすることを思い描きながら採用試験を受けていました。
それが4回目となる2013年の試験では養護学校教員の試験を受けることにしました。
「最初は漠然とサッカー選手としてできるところまでやって、終わったら高校で教員をして部活を見たいって思っていたんです。それが鹿児島に帰ってきてもらった話がたまたま養護学校で、そこに飛び込みました。
実際それまで障害がある子どもたちと関わることが少なかったんですけど、みんなすごく純粋でまっすぐで。昼休みも子どもたちとサッカーでコミュニケーションを取ろうと思ってボールを蹴っていたら人数が増えてきて、気づいたら自分よりも早く行ってボールを準備したり自発的にサッカーをしていて、しかもうまくなっていくんですよね。
みんなすごくいい目をしているし。この子どもたちはサッカーと接する機会がなかった。でも知ったら自分からどんどんやっていく姿を見ていて、障がいがある子どもの指導者になるのもいいなって思っていました。それで当時、学校の教頭と面談があるんですけど、“先生は、特別支援学校が合ってる”って言われて、確かにそうだなと思って。それまで漠然と高校教員をめざしていたけど、高校とか部活動にこだわる意味もないなって思ったんです」
その間も試験対策もあって身体を動かす必要があり、南さつま市のクラブチームで週1回練習してリフレッシュをして、中学高校の体育教師の免許に加えて、さらに放送大学で特別支援学校教諭の二種免許状を取得するための勉強をして、取得見込みで受けた採用試験に4回目で合格しました。
「元の臨時採用の話が高校とか中学校だったら、この道と出会うことはなかったですよね」
人生の転機となる出会いはどこでおとずれるか分かりません。
正規の教員となった泉谷さんの初任地は出水養護学校(現在は出水特別支援学校)。
サッカー部はなく、サッカーとのつながりはひと段落するかと思いきや。
教員1年目を無事に終えようとしていた2015年2月から、鹿児島県の知的障がい者サッカーの選抜チームを見ることになったのです。
さらに9月、2018年の世界選手権通称「もうひとつのW杯」をめざす日本代表の監督に、前回大会で代表コーチを務めた鹿児島県出身でヴォルカ鹿児島OBでもある西眞一さんが就任したタイミングで、泉谷さんに代表コーチの話がおとずれます。
「2月に知的障がい者のサッカーをするぐらいのところだったから、“本当にいいんですか?自分で”みたいな」
そして3年後にはスウェーデンで「もうひとつのW杯」が開催されるにあたり、鹿児島県から2人の選手が日本代表に選ばれ、西監督とともに4人で、鹿児島ユナイテッドFCのホームゲームでの壮行会に参加しました。
その頃、ヴォルカ鹿児島とFC KAGOSHIMAが統合した鹿児島ユナイテッドFCでは、ヴォルカ時代のチームメイトであり鹿屋体育大学の後輩でもある赤尾公が中心選手として牽引していて、鹿児島をサッカーで盛り上げようとがんばっています。
「自分もヴォルカ鹿児島でプレーしましたが、そのヴォルカとFC KAGOSHIMAがいっしょになって、地道に歩んでいってくれていて、自分もその前身のチームに関われたし、お世話になった鹿児島にこういうチームがしっかりとできて、観客もたくさんいて、嬉しい気持ちでした」
泉谷さん自身はなかなかスタジアムに足を運ぶ時間はありませんでしたが、気になる存在ではあり続けていていました。
フューチャーズの誕生
世界選手権を終えたくらいから西さんとユナイテッドとの間ではひとつの話し合いが続けられていました。
多くの知的障がいがある子どもや元学生がサッカーをする場が限られているため、選手の発掘、チームの強化、裾野を広げるという点で課題になっていることは、西さんも泉谷さんも感じていることでした。
一方でひとつのチームを運営するには人の手もお金もかかりますし、なによりそのチームを必要とする人たちに、チームの存在を知ってもらわなければなりません。
逆にチームをきちんと運営することができれば、高等特別支援学校などで活躍した選手が卒業後もサッカーを続けることができるし、レベルを問わずサッカーに挑戦したい子を受け入れることができます。
西さん泉谷さんたちの想いと鹿児島ユナイテッドFCの想いが合致したことで、2019年2月、鹿児島ユナイテッドFCの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」が創設されました。
「Jリーグクラブの中に知的障がい者のチームがあることで、メディアとかにも報道していただく機会が増え、障がいがあってサッカーをしたいけど、どこに行けばいいのか分からない人たちが集まってくれるようになったらいいなあって思っていました。そして選手たちがプロクラブのエンブレムをつけて練習とか試合ができるようになることは、すごくモチベーションになると思いました」
日本代表でもいっしょの西さんは総監督に就任して、泉谷さんが監督に就任します。
「前の年の県選抜の選手がそのままフューチャーズになった形でしたが、県選抜監督とは、また違う引き締まる想いがしました」
チーム名は鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズとなり、Jリーグクラブの一員となりましたが、もちろんそれだけですべての状況が変わるわけではありません。
最初の頃はなかなか練習に選手が集まりません。
経験の場として鹿児島県社会人リーグに参加しますが、試合にも人数がそろわずに二桁失点で敗れることもありました。
そういう状況を踏まえて、社会人リーグにはコーチ陣から磯田さんや古薗さん、そして泉谷さんも含めて選手としてピッチに立ち、いっしょにプレーしながら選手たちが成長していけるようにうながす方針を取りました。
「でも自分は1試合目の社会人リーグでアキレス腱を切ったんですよ」
それでも泉谷さんの情熱は衰えません。
選手たちに対しては「60分(30分ハーフ)ハードワークする」「シンプルにゴールを意識する」「粘り強く守る」「ラインの上げ下げを意識する」といったサッカーの原則を徹底的に意識させます。
そこで冒頭の答えにつながる質問として、サッカーを指導するうえで健常者と知的障がい者で接し方がどう変わるのかをたずねました。
「もちろん指導者が噛み砕いて伝えていることはあります。あとは小学生年代の指導と似ているかもしれません。3つ伝えたいとしても、一度に3つ伝えると理解することが難しいので、どれがその子にとって一番優先して伝えるのがいいのかを考えてシンプルに短く伝えるっていうところですね。根気強く。週1回2回しか練習できないわけで、1週間前に伝えたことが次の練習の時には忘れてて当たり前くらいのスタンスじゃないとだめだろうなって思います。
“先週言ったじゃん”は彼らには通用しないので、そう言えば先週はこうだったなって思い出してくれたら個人的にはそれでもOKだ、ちゃんとつながった。次はもっとスムーズにできるように繰り返しやっていこう、と」
ピッチ上で選手たちと接する泉谷さん、他の指導者たちも含めて誰もが穏やかでやさしく選手たちに問いかけて、できるだけ自分自身で答えを出せるようにうながしていて、「なんでできないんだ」と叱責するような姿は想像できません。
「でもちょっとした時に、挨拶とかみんなで準備することとか、今までできていたことができなくなったりとか、ちょっとプレーが怠慢になったりとか、こういう部分は絶対に見逃さずに気づかせないといけません。それは自分たちもそうですけど、どこかで自分にスキがあったことに気づいて我に返ったりしますし」
多くの人が「そういう指導ができたら理想的だよね」と思うやり方をフューチャーズの指導者たちは丁寧に実践しています。
6シーズン目を迎えたフューチャーズからはキャプテンの原良田龍彦選手を筆頭に、原田康汰選手、福原碧人選手、下鶴掛夢選手と4人の代表経験者を送り出し、高等特別支援学校を卒業したばかりの小才天太選手も代表トレーニングパートナーに選ばれる機会があります。
九州選抜にも多くの選手が選ばれており、着実に選手たちが育っています。
特筆すべきは全員が10代から20代なかばの若手中心であること。
フューチャーズの選手たちの軌跡について詳しく、、、書いているとこのコラムが純粋に3倍になるので昨年公開された原良田龍彦選手と下鶴掛夢選手のコラムから、選手たちの想いについては感じていただければ幸いです。
ところで最近、原良田選手は代表に選ばれる機会が減っています。
10代のうちから不動の代表選手であり続けた原良田選手が、選手としてピークにある20代なかばの今、代表になかなか食い込めていない。
その現状は「日本全体のレベルが上ってきているから」が答えでした。
以前の日本代表は競技人口が多くて交流も容易だった東京の選手が大半を占めていましたが、代表監督に就任した西さんは丹念に日本中をまわって可能性がある選手を発掘して、代表合宿に呼び、その経験が各地域に還元されることで日本全体のレベルが上ってきています。
もちろん長きにわたってずっと障がい者サッカーを育んできた先人たちの尽力があってこそ、ということも泉谷さんは忘れることなく強調します。
そのレベルが上ってきた日本の知的障がい者サッカーにおいて、九州代表として出場した3月のチャンピオンシップでは初優勝を果たします。
鹿児島県知事と鹿児島市長へ報告の表敬訪問を行い、多くのメディアに取材され、多くの注目を集めました。
それでも昨年の特別全国障害者スポーツ大会で鹿児島を準決勝で下して6連覇を達成した絶対王者、東京都が出場していなかったこともあり「やはり全国障害者スポーツ大会で1番を取ってこそなんです」と今年は佐賀で行われる舞台でのリベンジに心を燃やしています。
そして日本代表として次の世界選手権への想いもあります。
初めて出場した2018年大会ではサウジアラビアに「一瞬のスキを突かれて敗れた」悔しさが残りました。
映像で見ているのと違い、実際に目の前で対戦した時に世界の強豪が持つパワーやスピード、決定力、ぶつかった時の音の違い、すべてが印象的なものでした。
フランスで予定されていた2022年大会は新型コロナと世界情勢の影響により大会自体が中止され、4年間の準備が流れてしまいました。
だからこそ正式な開催地は決定されていませんが、2026年に行われるであろう次こそはの気持ちです。
一方で中止になった世界選手権ですが、フランスとは2試合の親善試合を行い、昨年末もアルゼンチンに遠征して2試合の親善試合を行う機会がありました。
「アルゼンチンはドリブルのうまさとか小さい体格でも身体の強さがあって、フランスもサイドの選手がすごく速かったり大柄だったり」という感覚を選手もスタッフも、ネットやテレビの情報ではなく対戦して感じることができました。
そのアルゼンチンとフランスについての印象は、フル代表だったり強豪クラブでプレーする両国出身の有名選手たちにも通じるものがあります。
そして日本代表が掲げるのは全員攻撃全員守備。
環境が成熟するにつれてあらゆる場所でのサッカーが、徐々に所属するコミュニティのサッカー文化を反映したものになっていくものなのかもしれません。
知的障がい者サッカーのなかでも“日本らしさ”がありました。
文化としてのサッカーへ
忍耐強く、前向きに、丁寧に選手たちの成長をうながしてきた鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ監督の泉谷さん。
「サッカーだけやっていて、仕事をちゃんとしないのではいけませんから」と泉谷さんは言い切り、選手たちには社会人として生きていけるように大切なことを伝え続けています。
フューチャーズの充実は、選手たちの職場や学校での生活も充実しているからでもあります。
そんな泉谷さんに、これからのユナイテッドにどうなっていって欲しいかを聞いてみました。
「もちろんユナイテッドにはJ1でもプレーして、結果だけでなく内容でも認められるチームであって欲しいです。そしてやっぱり県民に愛されるチームであってもらえたらと思いますね」
県民に愛されるとはもう少し具体的に言うと泉谷さんにとってどういう景色でしょう?
「なんですかね、普通の日常の会話でユナイテッドの話題がぱっと出てくる。“昨日の試合勝ったね”とか“次の試合観に行こうか”とか。街のなかでそういう会話がサラッと出てくる街なんじゃないかなって思うんです。
もちろんたくさんの人にスタジアムへ足を運んで試合を診てもらうこともすごくいいんですけど、テレビで放送があれば家で観るとか、スポーツバーで観るとか。ネットニュースで観て興味を持つとか。子どもたちがユナイテッドをめざしてがんばっていて、それを応援する親やおじいちゃんおばあちゃんがいるとか、そういうところですかね。
あのスタジアムにも色々な年齢層の方々がいて、スタジアムでも試合を観ながら飲むビールが美味しいとか。そういうのもいいと思うんです。車椅子の方も結構観に来られていますよね?」
ええ、鴨池の車椅子の方向けのスペースはいつも事前予約で埋まります。
「自分の教え子も観に来たことがあって、田上さんと写真を撮ったらしくて、そういうのもいいなあって思います」
鹿児島ユナイテッドFCのホームゲームには多種多様な方々がおとずれます。
老若男女が偏ることなく混在していて、車椅子のサポーター、杖をつくサポーターの姿もあり、目に見えない障がいを持ったサポーターもいて、社会的地位のある人たちもその立場を忘れて応援に夢中になっています。
そしてゴールが決まった瞬間の爆発、興奮。
イエス・キリストは「信じる神の前に人はみな平等」と言いましたが、「応援するクラブの前に人はみな平等」なのかもしれないと思わせる光景が、スタジアムにはあります。
そんなスタジアムの場内外で、フューチャーズに所属する選手の1人が毎試合のようにボランティアとして運営を手伝ってくれています。
サッカー未経験の状態からフューチャーズに参加して、毎週サッカーをして、決してうまい方ではないけれどレベルを問わず仲間たちとひたむきにボールを追い続けて、少しずつ少しずつ着実に上達していって、公式戦の出場機会を得るまでになりました。
試合に出ない時もみんなの飲みものを準備する、ボールなどの道具を運ぶことなどチームの一員としての細々としたことを他のベンチメンバーも含めてみんなで行い、いつ出番が来てもいいようにアップをする姿を見ることができます。
かなり前からボランティアをしたいと本人からの希望はありましたが、みんなにとっての挑戦としてボランティアとして受け入れ、今ではホームゲーム運営にとって大きな助けとなっています。
彼のサッカー選手として、1人の社会人としての成長もまた鹿児島ユナイテッドFCにとっての偉大なる成果と言えるでしょう。
鹿児島ユナイテッドFCが高いところをめざしているからこそ、横の広がりは欠かせません。
その横の広がりを語るうえで大切な要素のひとつを示しているのが、鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの選手たちであり、監督としてその成長を信じてうながし続ける泉谷さんです。
「自分のサッカー指導の入口が知的障がいサッカーなのでそことは今後も関わらせていただきたいです。仕事も特別支援学校の教員というところでそのやりがいはいっぱいあります。教員でやっていることがサッカーの指導にも生かされますし、サッカーで指導していることが教育現場にも生かされていて、いい両輪になっていてこの形で続けていきたいですね」
カフェの閉店時間が迫り、店員さんに声をかけられるほど長い時間、泉谷さんはずっと丁寧に誠実に熱心に話を続けてくださりました。
ここでは書ききれないことをたくさん。
泉谷さんはユナイテッドOBではなく前夜史を彩ったヴォルカ鹿児島のOBですが、改めて思うのは、この人が高校教員として部活の指導者となる未来も悪いものではなかったのでしょうが…。
やはりフューチャーズというチームの監督としてユナイテッドの一員として携わってくださっていることは、鹿児島ユナイテッドFCにとって本当に幸福なことだと感じました。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.37(Total vol.49)」
西眞一さん(鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ総監督ほか)
※2024年11月9日、クラブ公式サイトに掲載されたものです
現役生活13シーズンで九州リーグ得点王に輝くこと9回。
7年連続得点王、8回目と9回目の得点王は引退前の2シーズンで達成したという事実に圧倒されます。
通算266ゴールはひとつのリーグにおける日本最多得点記録で、釜本邦茂さんや呂比須ワグナーさんをも上回ります。
多くの記録を刻んだ男、西眞一さんは穏やかにやさしく微笑みながらさっそうとイオンタウン姶良の喫茶店に姿を表しました。
コーヒーといっしょに注文したのはたっぷりアイスクリームが載った熱々デニッシュ。
漏れ聞く現役時代のストイックなエピソードや成し遂げた記録、実直な人柄からはかなり意外ですが「現役時代から甘いものは大好きでして」と目尻を下げながらこちらにも半分食べるようにうながしてくださります。
鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズの知的障がい者サッカーチーム「フューチャーズ」中心のチームで挑んだ全国障害者スポーツ大会「SAGA2024」を終えたばかりなので、その話からと思っていましたが、自然と西眞一さんの原点から話が始まりました。
高校大学時代
高校時代に西さんが所属していたのは県内きっての強豪、鹿児島実業高校…ではなく公立の鹿児島玉龍高校でした。
奇しくも西さんが3年生の時に同級生の笛真人さん、若松賢治さん、ひとつ下の前園真聖さん、仁田尾博幸さん、藤山竜仁さんたち将来のJリーガーが活躍して、鹿児島実業高校は選手権準優勝を果たした時代です。
「自分はそんなにうまくないと思っていたので」
当時まだ日本にプロサッカーはなく、選手として目指す場所はなく、競技として高いレベルに自分がいるとも思っていませんでした。
しかし3年生の時に国体の鹿児島県代表に選ばれてそこでプレーできたことで、西さんは自身の可能性を感じます。
さらに大岩剛さんや名波浩さんたちを擁する静岡県代表と3位決定戦で対戦して、「鹿児島の外を観ることができた」ことでもっと高いレベルでやりたいと考えるようになり、大学サッカーの強豪である筑波大学を受験します。
ところが。
「自分には考えがなかったんですよ。一般常識、社会や経済、そういったことに関心を持っていなかったし、小論文や面接の準備も何もしていなかった。勉強はトップクラスだったけど空気が読めなくて、授業が終わると、まだ問題集に向かっている同級生に構わず、すぐにサッカーするためにグラウンドに飛び出していって」
サッカーの実技以前の段階で落第しました。
筑波大学はかつてユナイテッドで活躍した田中秀人さんのような浪人経験者は珍しくありませんが、浪人はしないと決めていた西さんは鹿児島経済大学(鹿児島国際大学)に入学しました。
それが結果として「鹿児島に生きる西眞一」の生き様につながっていきます。
当時の鹿児島経済大学サッカー部は九州1部リーグではありませんでしたが、それまでの中盤からFWへとポジションを変えた西さんは徐々に頭角を表します。
九州選抜に入り、チームも1部リーグを経験するなど充実した4年間。
そして卒業後、西さんは就職浪人をしているさなか鹿児島サッカー教員団に加入します。
ヴォルカ鹿児島時代(95-02)
「結局ですね、私は本当に人に恵まれて、感謝しかありません。鹿児島県内で教員団は最高のチームで、教員しかだめだったところを理解してもらって」
デビューした1995シーズン、九州リーグ新人王を獲得することで周囲の想いに応えたのです。
そして「鹿児島にもJリーグを」の声が上がり、教員団を母体にしたヴォルカ鹿児島が誕生します。
姶良町役場という職場を得て、錦江湾に隣接する国道10号線を通って練習に通う日々。
ヴォルカ鹿児島として迎えた最初の1996シーズン、西さんははじめての得点王に輝きます。
「最初のころはポストプレーが多くて。シンプルにはたいて、マークしてくる相手ともコンタクトしながらやる」
最前線で時間を作って、味方に一度あずけると今度はペナルティエリア内へ。
味方からパスやクロスが返ってくる。
右足で、左足で、頭で、一発でしとめる。
どれこれもすばらしいものでしたが、「空中で止まるような」滞空時間の長いヘディングが特に印象深いと、当時からのサポーターはおっしゃっていました。
背番号9を背負った西さんはゴールを決め続けます。
翌シーズンも、その翌シーズンも。
「点を取れるっていう自信はつきますよ、自信はね。でも下手くそだっていう想いはずっと変わらない。だから僕は連続して得点王を取れたのは“偶然じゃないんだぞ”って、連続して取ることで自分の力を証明することにつながるって思っていたんです。
そのために色々やりました。特にシュートの練習では“ここに出してくれ”とか“どういう風にしたかったのか”とチームメイトとたくさん会話をしていました」
4年連続で得点王になることで、3年連続得点王がまぐれでないとようやく証明できる。
5年連続を獲ることで、4年連続がまぐれでないとようやく証明できる。
攻撃の下ごしらえと仕上げを高次元で兼ねる存在感に、対戦相手から「とにかく西を潰せ」と厳しいマークを受けることになりますが、西さんは負けません。
「自分が下手くそだから上手くないから練習するしかなくて。自分へのネガティブな感情から、自分のプレーを奮い立たせて」
1996-2002シーズンの間に7年連続で九州リーグ得点王の偉業を達成する西さんには、いつしか周囲から敵味方を超えて尊敬を込めた「キング」が枕詞につくようになります。
ヴォルカ鹿児島時代(03-07)
2002年日韓W杯で日本中が熱狂した翌2003シーズン、それまでも上を目指し九州リーグの上位にいたヴォルカ鹿児島が、本格的な強化に乗り出しました。
鹿児島県出身の前田浩二選手兼監督を迎え、内藤就行選手兼コーチ、野田知選手兼コーチと3人のJリーグ、J1経験者を加え、九州リーグ優勝、JFL昇格そして将来のJリーグ入りを目指すようになります。
「(前田監督体制だった)2年間、得点王は獲れていない」と笑いますが、もちろん前田監督への批判ではありません。
それまでビルドアップからシュートまで「戦術は西」状態だったヴォルカから、野田選手兼コーチが中盤で組み立てて、西さん以外の選手たちがゴール前で点に絡む機会を増やすチーム作りをしていました。
そのチーム作りと、選手たちの質が上がったことでヴォルカは、そして西さんははじめてJFL昇格をかけた全国地域サッカー決勝大会への出場を果たします。
3日で3試合が行われるリーグ戦でしたが、ヴォルカはザスパ草津(ザスパ群馬)に敗れ、昇格を逃します。
捲土重来を期した2004シーズンも九州リーグ3位に終わり、前田監督は辞任。
さらに財政難に陥ったことで大幅に戦力は減少しました。
そのなかでも西さんは33歳で迎えた2006シーズンには、2002シーズン以来の得点王に返り咲きますが、チームはなかなか優勝争いに絡むことができません。
「(焦りは)ありますよね。もう本当にJリーグに上がりたいと思っていますかって。前田さん、内藤さん、野田さんたちがもういなくなった。そんな先が見えないなかでも選手たちは一生懸命目標を持ってやっていて、それに対してクラブはどうなんだって強い感情を持っていましたし」
同時に、この時期は日本のあちこちで「我が街にもJリーグを」と目指すクラブが次々と誕生して…思うように結果が出ない年月の末に、解散するクラブも散見される時代でした。
そうなることもありえたヴォルカ鹿児島を、「鹿児島にJリーグ」の種火を消滅させてはいけないと尽くしてくれている人たちがいました。
「心が折れるっていうことはなかったです。それはもう“仕事”ですから」
あくまで本業は姶良町役場に務める公務員であり、サッカーでお金を稼ぐことはありませんが、活動費をクラブが用立てるために支えてくれる人たちがいること、先が見えない苦しみのなかでも投げ出すことなく応援してくれる人たちがいることの意義を西さんは身に染みて理解していました。
だからこそ西眞一にとってサッカーは「職業」ではなくても、かけがえのない「仕事」だったのです。
30歳を過ぎて少しずつ身体の無理がきかなくなっていく中でも、西さんはゴールを決めるために、チームを勝たせるために、ピッチに立ち続けました。
2007シーズン、19試合で23得点を決めて、13シーズンで9度目の得点王に輝きました。
高卒3年目のFW辻勇人は「身体が大きいわけでも、足が速いわけでも、特別上手いわけでもない。それでもあれだけゴールを決めることができる。ワンタッチゴールを西さんから学びました」と憧れた背中を回想しました。
高卒1年目のFW山田裕也は「スーパースター。とにかく点を取る。“なんであんなにゴール前でフリーになれるんだろう?”って思ってました」と率直に敬意を表しました。
キャリア晩年を迎えてなお、他を圧倒する存在感を放ち続けていました。
そして最終節を終えた後の本城陸上競技場のロッカールームで、西さんはチームメイトたちに引退を告げました。
主に競技運営を担当していたフロントの湯脇健一郎も、辻勇人も山田裕也も、誰もがなんの前触れもない引退宣言に驚愕しました。
「1年1年、大げさかもしれないですけどやっぱり覚悟を持ってやらないといけないと。30歳を過ぎて仕事をしながらですが、サッカーで手を抜くことができない。100パーセントやろうとしたら本当に覚悟を決めないといけませんから。
それで今シーズンで終えようとか決めていたわけじゃないんですけど、あの試合が終わった時にシンプルにすっとこう思って。
それから勇人や山田に託したほうがいいなと。
もう僕もやるからには負けたくないから試合に出るためにやるし、そうしたら監督も使ってくれるし、それで山田と勇人、どちらかは試合に出られるんだけど、僕が出るとそのポジションがひとつに減るわけで、それはどうなのかなと思っていて」
2007シーズン時点で言えば西さんの方が能力でも経験でも、ストライカーとしての格でも上なのは疑いようはありません。
しかし5年後さらに10年後に「鹿児島からJリーグ」を考えると、それを背負うであろう彼らこそが、試合に出て力をつけていく必要があると西さんは考え、そして現役を退きました。
引退記念試合では6ゴールを決めて、最後の最後までらしさを観るものに届けて。
辻は西さんが引退した翌々年の2009シーズン、それまで3番手4番手FWだったにも関わらず、誰も背負えず空いていた背番号9を西さんとクラブに志願して受け継ぎ、西さん以来の九州リーグ得点王に輝きます。
さらに2013シーズンには後発のFC KAGOSHIMAの選手として、鹿児島をJFL昇格に導くゴールを決めます。
その時期に湯脇はヴォルカ鹿児島の代表として、FC KAGOSHIMAとの統合を実現するために、鹿児島教員団からはじまるクラブの歴史に幕を引く責任を果たします。
2つのクラブが統合して誕生した鹿児島ユナイテッドFCの2015シーズン、それまでは身体能力と本能的なプレーが先んじていた山田は、西さんのようにゴール前での勝負強さを発揮。チーム得点王となる11ゴールの活躍で鹿児島のJリーグ入りに決定的な役割を果たしました。
現役引退後、障がい者サッカーの領域に軸足を置いてい西さんは、東京帰りで30歳そこそこの公認会計士である徳重剛がFC KAGOSHIMAというクラブを立ち上げたことも、2つのクラブが切磋琢磨することで鹿児島のサッカー界に活気をもたらしたことも、徳重と湯脇が鹿児島ユナイテッドFCというクラブの誕生に尽力する姿も、ついに鹿児島にJリーグクラブが誕生していく過程も、そこに辻や山田たちがいたことも、すべてを肯定的に多幸感とともに見つめていました。
西さんが現役生活を送った九州リーグからは大分トリニティ(大分トリニータ)、FC琉球、ロッソ熊本(ロアッソ熊本)、V・ファーレン長崎、ニューウェーブ北九州(ギラヴァンツ北九州)が次々とJFLそしてJリーグへと巣立っていきましたし、企業チームからホンダロックSC(ミネベアミツミFC)も、後に解散したプロフェソール宮崎もJFL昇格を果たしました。
強敵ぞろいの九州リーグで、それでも「彼が何かを起こしてくれる」というサポーターの期待を背負った日々をどのように思っているのでしょうか?
「Jリーグを目指すチームが鹿児島にあって、そこでプレーできるということで、本当にまわりの期待を感じて、その作っていこうというモチベーションが非常に高かった。たとえオファーがあっても他のクラブへ行くなんて考えられませんでした。
僕はいつも人生はなるようになると思っているので、その与えられた場所で懸命に生きていくっていうか、正直にそこに向き合って過ごしていくっていうことを大事にしています。
だから今もそうですけど、常に幸せでした」
誰にも負けない、絶対に成し遂げるという覚悟を持ってピッチに立ち続けていた西さんは、得点王を獲り続けた個人としての結果に対して、チームとしてクラブとして報われたとは言い難い自身の現役生活を、それでも幸せだったと言い切りました。
この段階できれいな歴史、過去の話で締めくくれそうですが、西さんと鹿児島とサッカーの物語はまだまだ終わることなく現在までつながっていくのです。
知的障がい者サッカーチームの指導者としての現在
大卒2年目から勤める姶良町(2010年より姶良市)役場では福祉関係を担当していた影響もあり、現役引退後の西さんは障がい者サッカーの道に進んでいきます。
2014年にブラジルで行われた知的障がい者サッカー世界選手権、通称「もうひとつのW杯」を闘う日本トップチームのコーチに就任。
さらに2018年にスウェーデンで予定されている世界選手権に向けた監督に就任します。
強い意志と飽くなき情熱とともに、辛抱強く、しかし楽天的に選手たちに接することができる西さん。
一方でまず地元鹿児島の知的障がい者サッカーを取り巻く環境を見てみると、常設のチームがなく、全国障害者スポーツ大会のブロック予選など大会に向けた選抜チームが細々と活動している状況で、普及という点でも強化という点でも課題がありました。
その課題意識を鹿児島ユナイテッドFCの徳重、湯脇と共有して、2019年に誕生したのが「鹿児島ユナイテッドFCフューチャーズ」でした。
「湯脇さんは本当に視野が広くて私たちの想いを理解してくれて、今があります。それまでは社会人だけで、中学生高校生のうちから選手が入って来ることはなかったんです。そこでみんなが憧れて観ているユナイテッドの一員になれるっていう効果は大きいです」
毎週2回活動するチームがあることで、継続的に選手たちはトレーニングを積むことができるようになり、その環境があることで意識の高くなった選手たちは全体トレーニング以外でも自分のレベルを上げようとトレーニングに励む。
大好きなサッカーをするという軸ができたことで、仕事や勉強にも励む。
20名30名の知的障がい者の若者が、サッカーを通して、鹿児島ユナイテッドFCを通して、1人の社会人として自律する姿があります。
と、口で言うほど簡単なことではなく、若者らしく羽目を外すことはありますし、上手くいかないと集中が途切れてしまう選手もいますし、ついには練習に来なくなってしまう選手もいます。
それでも西さんや泉谷監督や磯田GKコーチ、古薗コーチ、朝木コーチ、石下谷トレーナーたちスタッフは、見放すことなく粘り強く前向きな姿勢を変えることなく、選手たちのピッチ内外での成長をうながし、待ち続けています。
「1年かかっていいからって言うんですよ。そんなすぐにできることはない、1年かかってちょっと成長する、そのくらいのスタンスで私も見守っています。
そうすると変わってくるんですよね、人間って。
障害があるとかないとか関係なくて、その人のペースだったり、それぞれ性格があって、例えば消極的で壁を超えられない選手は背中を押してあげたり、あえて経験をさせたり、そういう関わり方をした。
来なくなる選手もやりたくなったらまた戻ってこれるチームであるように。
だって我々が彼らを見捨てたら、彼らはもう来れる場所がない、社会に戻れないから、どんなことがあっても我々がしっかりとサッカーでみんなを引っ張っていこうと、いつでも帰ってこれる場所であろうと、そういう環境づくりをしています。
(指導者の)みんな、ありがたいですよね。“やってあげてる”とかそういう意識のスタッフはいなくて、みんな“やりたい、いっしょに関わって目標に向かって歩みたい”ってスタンスで、彼らの奮闘にはもう頭が下がりますよ」
選手たちは社会人リーグや県外の大会を通して着実に力を蓄え、原良田龍彦、原田康太、福原碧人、下鶴掛夢と4人の日本代表経験者を擁するまでになります。
昨年10月に地元鹿児島で行われた全国障害者スポーツ大会では優勝を目指すなかで、準決勝で5連覇中の東京都を相手に0-2で敗戦。
それでも気持ちを立て直した3位決定戦は三重県に盤石の試合展開で3-0の勝利。
優勝を逃しましたが、3位という結果を残しました。
明けた3月に行われたクラブ選手権大会では九州勢としても初の全国優勝を達成しますが、「あの大会には東京は若手のチームで臨んでいますから(関東予選で敗退)。やっぱり全国障害者スポーツ大会で勝ってこそなんです」。
東京に勝つことを念頭において迎えた「SAGA2024」。
1回戦は奈良クラブの知的障がい者サッカーチーム「VAMOS」を主体にした奈良県に10-0で勝利。
そして準決勝で東京都との再戦。
トレーニングを重ねた隙を見せない守備で東京の攻撃を防ぎながらも、チャンスと見れば一気に前線へ押し寄せます。
戦略的に準備してきて、思うとおりのゲーム運びでした。
それでも終盤に失点を喫して0-1の敗戦。
「今回、ここまで戦略的にやったことで、今年を踏まえて来年に向けてどうするか課題ができましたので、それはそれでよかったなと。悔しかったですけどね」
日本知的障がい者サッカー連盟の技術委員という役職があるため、翌日は鹿児島が3位決定戦で佐賀県に15-0で勝利するところではなく、決勝で東京都が静岡県に3-0で勝利して優勝するところを見届けました。
鹿児島にとっては高い壁ですが、2026年の開催に向けて調整されている世界選手権に向けた日本代表監督としては東京都の充実ぶりも、同じ関東では神奈川県や栃木県なども強く、全国的にレベルが高まっているのは喜ばしいことでもあります。
そして2030年の世界選手権は日本で開催したいという希望もあります。
フューチャーズに目を移すと、35歳の笹原有世を別にすると、年長組でも20代なかば、鹿児島高等特別支援学校や鹿児島城西高校に在学しながらプレーする選手もいますし、卒業後はフューチャーズに所属する流れができつつあります。
高校卒業後はプレーする場がほとんどなかった時代から普及、強化両面で鹿児島の知的障がい者サッカーの分野は進化をとげました。
そして西さんの想いはフューチャーズにとどまらず、小学校を卒業した女子中学生がプレーを続ける場として「鹿児島ユナイテッドFC姶良Elegant」を立ち上げ、U-12の「姶良Region」という4種チームをサポートし、志ある指導者たちといっしょに平日の夜から週末まであちこちで指導に動き回る日々です。
「自分に足りないところ、抜けているところを補ってくれるから」と各チームで指導されている方々への感謝はつきません。
一方でたくさんの「これをなんとかしたい」という西さんの本気の想いが感じられるからこそ、多くの人たちがいっしょに汗をかいていることもまちがいありません。
鹿児島ユナイテッドFC(現在から未来へ)
西さんは障がい者サッカーだけでなく、鹿児島県サッカー協会の副会長でもあります。
協会の役職があるから、というよりは1人のサッカー人として、鹿児島で生で観られるプロのゲームを通して何かを吸収しようとスタンドに腰掛けます。
9月15日のロアッソ熊本戦はJ2残留に向けた山場であり、九州リーグ時代に対戦した相手でもありましたが、0-2で敗戦するところを観ながら、「もっとやれるはず」という想いとともに、かなり苦しい状況にあると感じました。
そして2試合を残してのJ3降格が決定しました。
「残念ですよ、それは。想像ですけど、前回の轍は踏まないと、クラブ側も考えて色々とやってきて、監督を交代して、補強をして状況を変えようと絶対に降格するのを回避しようという気持ちがすごく伝わってきたので。
でも結果としてこうなった。
それを受け止めて次に向かうしかありませんから」
今週末は19位と順位が確定したなかでシーズン最終戦を迎えます。
西さんご自身も現役時代にあらゆる可能性が絶たれたなかで、シーズン終盤や最終戦に臨む経験をしてきましたが、どのような想いでピッチに立っていたのでしょうか?
「僕らはプロではなかったけれど、遠征費とかはクラブから払ってもらいながらプレーしていました。やっぱり支えてくれる人もいたのだから、応援してくれる人もいたのですから、次に向かって全力を出すことが我々の仕事でした。
だから消化試合とかではなく、変わることはなかったですね。
監督も選手も難しいところはあります。
みんな感情がありますから。
いい時もあるし、悪い時もあるし、気持ちが向かわない時もある。
それでも向かわなければならないんです。
これはやっぱりサポーターに応える試合ですから」
西さんには応援してくれる人がいました。
今より少ない人数でも、1人1人の熱量では負けないサポーターたちがいて、そのうち多くのサポーターは今も鴨池に足を運んでくれていて、さらに何十倍と増えたサポーターが一体になって応援してくれています。
「ヴォルカのあの時のサポーターは今もいますよね。彼らはどんなゲームであってもスタンスが変わらない。一生懸命に選手を鼓舞してくれている。本当にもうどんな悪い時でもそれを受け止めてくれて、ありがたい皆さんだと思います。
ずっと選手やスタッフは入れ替わりながらシーズンを闘い、それを観てこられている。
だからこそ選手やスタッフの皆さんは全部の力を出すんですよ。
この試合で退団する人も変わることなく。
それしかなくて、それをやることです」
西さんの語り口はあくまでおだやかです。
それでも立場はアマチュアでも、支えてくれる人たちの想いを背負って、ピッチの上で闘い抜いてきた男の言葉には静かな説得力がありました。
そんな西さんは、プロを舞台にする鹿児島ユナイテッドFCにこれからどうなっていって欲しいのでしょうか?
「今もコンセプトをもってやっていますが、鹿児島にしかできないビジョンを着実に体現していって欲しいと思いますね。
アカデミーから大多数の選手をトップチームに送り出すという目標は長期的にでもぜひ実現して欲しいと思っています。
もちろん目の前の結果は本当に大事ですけれど、育成のところをしっかりと着実にやって、そうやって育てられた選手がトップの8割とかを占めるようになると、これはもう鹿児島にしかない姿と言えると思います」
サッカーのプレースタイルとしては、ボールを保持して組み立てるサッカー、手数をかけずに前線へボールを送るサッカー、前からボールを奪いに行くサッカー、構えて穴を塞ぐサッカーと色々とありますが、それらはどれもが必要なことという前提の上で「やっぱり点を取ることにはこだわって欲しい」とおっしゃいました。
その点を取るという分野でリーグ戦266ゴールを決めた西さんは、サッカーの中でももっとも特異で重いこのテーマについてどのように捉えてらっしゃるのでしょう。
「プロの人たちに僕が言うことではありませんが。
僕の浅はかな知識やアマチュアレベルの経験で言えば、チームの戦術とか色々とあるじゃないですか。
そうはしながらも相手との駆け引きをしていかなかければならないんじゃないかと思います。
チームの戦術をやりながら、最後はゴール前でフリーにならないといけないんです。
結局相手の守備もやられたくないから本気で来るわけで、それをどうやって外すのかという駆け引きがあって、点につながっていくんじゃないかなと思います」
続けて西さんは今シーズン後半、有田稜選手のプレーについて、駆け引きで相手の予想を上回る意外性があって共感するところがあったと評しました。
そして今シーズンの印象的だったゴールとして、ホーム開幕戦の徳島ヴォルティス戦で武星弥選手の決勝点を挙げました。
「いつもはバックスタンドで観ているんですけど、あの試合はメインスタンドで観ていて、ちょうど自分の視界の延長線上にシュートが決まって嬉しかったです」
もちろんホーム開幕戦での劇的な逆転勝利を決めるゴールだったから、というのもありますが、西さんにとっては武選手のゴールということも大きな要素でした。
「星弥は息子が帰省した時はいっしょに練習したりする仲なんですよ」
西眞之介。
西さんが現役生活終盤を闘っていた2004年に生まれ、小学校卒業後は鹿児島を飛び出しJFAアカデミー福島U-15、U-18へ。
さらに日本を飛び出して現在はドイツ4部のヴッパーターラーSVで、左右両方できるサイドバックとしてプレーしています。
こちらも同い年の神村学園出身、福田師王選手もまた名門ボルシアMGのセカンドチームが4部に所属している関係で、対戦する関係にもあります。
お父さんは鹿児島ひと筋ですが、息子は早いうちに鹿児島を離れて県外、そして海外へ。
その選択肢には引退後の西さんが指導者として日本各地や海外へ赴く機会が多くあり、そこで得た経験やワクワクした感情を家でも伝えてきたことが影響しているかもしれないという考えはあります。
ただ、聞かれない限り息子の話をすることはありません。
「息子は息子で、それは息子の選択だし、自分で決断して切り開いて進んでいることはすごく嬉しいですよ。
キャリアも良いことも悪いこともあるけど、うまくいかなくなってもそれを乗り越えるメンタルも中学校から家族と離れて生活しているし大丈夫じゃないかなと思っています。
やっぱり練習から相当激しいみたいだし、それでもチャンスはいっぱいありますよ。
サッカー以外にも、時間はあるはずだからもう色々と旅はしたほうがいいよとは伝えていて、その通りに視野が広がっていると思います。
むしろ息子の試合を観に行くのが楽しみなくらいでドイツに行きたいんですけど、まだ行けていないんですよね」
選手キャリアの縁には色々な流れがありますが、もし眞之介選手が鹿児島ユナイテッドFCに加わる日が来るとしたら…
「親としてはという部分もありますけど、(前身の)ヴォルカの元選手としても嬉しいですよね」
鹿児島のスタジアムで、手を伸ばせば届くような至近距離に居並ぶタッチライン際のサポーターの前で西眞之介が上げたクロスを、様々な経験を経て成熟した武星弥が中央で合わせてゴールが決まる。
桜島が噴火したかのような歓声がスタジアムを包み、ゴール裏のサポーターが大歓喜するすぐ目の前で2人が抱き合い、咆哮する…
甘く美しい未来予想図は無限に広がりますが、それもやはり「今この瞬間!」に全力を積み重ねてこそ、実現に近づいていくもの。
西さんご自身「やりたいことはまだまだたくさんあって、自分だけではやれないから想いを継いでくれる人に任せたり」と、市役所での仕事をしっかりと果たしながら、夜はひとつひとつの現場で一生懸命にサッカーに向き合って、同時にこれからの鹿児島に何が必要なのかを考えながら前へ進んでこられました。
まっすぐに、揺らぐことない強さと、誰に対しても変わらない真心とともに。
サッカー選手としての現役を引退して17年になりますが、西眞一は過去の人になることなく、現在もより輝かしい未来たちに向かって、その人望でたくさんの人たちの想いを束ねながら前へ前へと進んでいます。
「そんなだいそれた人間じゃありませんよ」と笑顔でおっしゃるかもしれませんが。
ところで。
「西さんの現役時代を観たかった」という声を聴くことが時々あります。
鹿児島の希望を一身に背負ったストライカーは、ピッチ上でどんな姿を応援してくれる人たちに見せてくれていたのだろう。
その姿を観る人たちの心をどんなに熱くしてくれていたのだろう。
偉大なるストライカーを称える思い出話を聞くたびに思いますが、あの時代に戻ることはできません。
今シーズン、当コラムでご紹介してきた鹿児島ユナイテッドFCのOBたちの時代もしかり。
それでも明日の試合を、これからの試合を観ることはできます。
だからこそ、現在鹿児島を背負って闘っている選手たちの、最後かもしれない選手も含めて、その輝きを目に焼き付けて欲しい。
自分自身が試合を、選手たちと共に闘う時間のなかで抱いたすべての感情を大切にして欲しい。
そう願います。
ずっと鹿児島に住んでいるのに、西眞一の現役時代の姿をきちんと観ることのなかった1人の鹿児島県民として。