【11月2日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2025 vol.18
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は11月2日に行われる2025明治安田J3リーグ第34節、鹿児島ユナイテッドFC vs 松本山雅FCのマッチデープログラムです。


2025明治安田J3リーグ第32節
vs ガイナーレ鳥取 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)


2025明治安田J3リーグ第33節
vs FC岐阜 会場:岐阜メモリアルセンター長良川競技場(岐阜県岐阜市)


コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.55(Total vol.67)」
小野重徳さん

コロナ禍の前から鹿児島ユナイテッドFCを観ている方は、選手たちに帯同するスタッフの中に、小柄で年配な、しかしたるみ緩みのない姿勢正しい男性の姿があったことを記憶されている方もいらっしゃることでしょう。
鹿児島ユナイテッドFCの立ち上げとともに、強化部長としてチーム運営を担ってきた小野重徳さん。
昔話をうかがいたいとお願いすると快く引き受けてくださりました。
とはいえ今回、小野さんにうかがいたいのは監督や選手にまつわる「裏話」的なものではなく、どのような想いでクラブに、そしてサッカーにたずさわってきたのか、ですのでご理解下さい。
ある日の昼過ぎ、ユニータの事務室の椅子に腰かけた小野さんは、ゆっくりと記憶をたどるようにお話をしてくれました。
九州リーグで、北九州の人間として
佐賀県に生まれた小野さんは、高校入学からサッカーをはじめます。
当時は1968年のメキシコ五輪で日本代表が現時点で唯一となる銅メダルを獲得していた時代。
野球よりもむしろサッカーのほうが盛んだった高校でサッカーの魅力に取りつかれた小野さんは、卒業後の進路もサッカーで選びます。
それが北九州市にある三菱化成黒崎(現在は三菱ケミカル)。
同じ北九州市にはメキシコ五輪で日本代表の中心選手だった宮本輝紀さんたちを擁し、日本で初めての全国リーグ「日本サッカーリーグ=JSL」に所属する名門、八幡製鐵所(後に新日本製鐵)もありました。
「(宮本)テルさんとかとよう飲んで。呑み始めたら“帰ろう”って言わない人で、こっちが“もう夜中ですよ、帰ろう”って言って」
朝から夕方まで仕事して、夜はサッカーして、深夜にお酒を飲んで、古き良き時代です笑

そんな小野さんが三菱化成黒崎サッカー部に入ったばかりの1973年から九州リーグが開幕しますが、三菱化成黒崎は初代チャンピオンに輝いています。
「僕は守るの嫌いでしたから」と笑う小野さんは、左ウィングを主戦場に優勝に貢献していました。
当時対戦した鹿児島の選手たちも「小さくてスピードがあるウィングいたなあ」と記憶に焼き付いていて、これまで一度もそんな雰囲気を見せることはありませんでしたが、小野さんはばりばりに選手でした。
とはいえこの時代、サッカー選手はあくまで会社に所属して、社業に従事することが前提です。
三菱化成は総合科学の企業であり、畑の肥料や染料や樹脂関係の開発など、製品になる前の段階の原料を作ったり改良したりという企業でしたし、小野さんも作業着で仕事をしていました。
「上司からは“お前いつまでサッカーやるんや、出世せんぞ”って言われて」
20代のうちに選手生活に区切りをつけて、社業に軸足を移して、日本全国にある支店や事業所への転勤を経て出世ルートへ進むのが普通でしたが、小野さんは違いました。
「“いや俺出世せんでいいです”って言って。役職ついたら転勤になるからね、そうなったらもう辞めるから、ここでサッカーするって」
北九州市で結婚して、お子さんも生まれて、家も建てて。
出世ルートには背を向けながらもしっかりと家庭の主として仕事を果たしながら、当時としては珍しく33歳34歳くらいまで選手を続けました。
実直な好々爺の雰囲気に満ちていますが、小野さんのサッカーへの情熱はちょっと狂的なものがあったことがうかがえます。

そして選手を引退してからもサッカー生活は続き、まずはコーチに、そして監督への道を進んでいきます。
第1回で優勝してからは中位が多かった三菱化成黒崎ですが、小野さんが監督をされている1981年から4連覇など6回の優勝を果たし、80年代は黄金期を迎えています。
ちなみに鹿児島県勢としては1986年に鹿児島教員団が初優勝、2012年にFC KAGOSHIMA、2013年にヴォルカ鹿児島と3度の優勝があるだけだから、いかに三菱化成黒崎が強かったかがうかがえますが、「教員団も五領さん、前原さん、染川さんとかいてうまかったですもん」と振り返ります。
こうして小野さんはJR黒崎駅に隣接する事業所で朝8時半から夕方5時まで仕事をして、終わったら敷地内のグラウンドで練習して、という生活を入社以来何十年と続けることになります。
しかし、会社としては徐々に選手として入ってくる社員は減っていき、強かった同期たちも半分以上が転勤していき、1989年を最後に九州リーグ優勝から遠ざかります。
一方で時代は徐々にプロ化、Jリーグ誕生へと進んでいきました。
九州から唯一JSLに参加していた北九州市の新日本製鐵サッカー部は、自分たち次第でJリーグのオリジナル10になることもできましたが、会社の判断により見送ることになります。

九州では静岡県の藤枝ブルックスを受け継ぐ形で誕生した福岡ブルックスがアビスパ福岡となり、1996年からJリーグ入り。
佐賀県からはサガン鳥栖が、大分県からは大分トリニータがJ2リーグへと参戦していきます。
自社のサッカー部と九州と日本のサッカー状況を見ていた小野さんは、北九州に新しいサッカーの波を呼び起こそうと動き出しました。
ニューウェーブ北九州
1995年に三菱化成黒崎フットボールクラブと改称して、社員以外にも門戸を開きます。
2001年、北九州市からJリーグ入りを目指すクラブ「ニューウェーブ北九州」が誕生しました。
その母体となったのは当時、小野さんが監督をやめてからは世話役の立ち位置にいた三菱化成黒崎FCでしたが、その道のりは最初からたやすいものではありませんでした。
「このチーム名から“三菱”を外す時はOBからえらい怒られましたよ。“だったら解散せい”とかね。
でももう50年近く続いてきたサッカー部を潰すのは簡単やけど続けるのは非常にパワーがいるわけで、それでなんとか説得して北九州にこのチームが残ったんですけどね」
北九州からJリーグを目指すといっても、現状の立ち位置はあくまで九州リーグ所属です。

同時期に鹿児島ではヴォルカ鹿児島が絶対的得点源の西眞一さんたち自前の有力選手に加えて、前田浩二さんたちJリーグ経験者を加えていたのに対して、ニューウェーブ北九州の歩みは実直そのもの。
小野さん自身、事務局長から「給料は払えないからお前さんはそっちに残っといて」と言われたように、あくまで本籍は三菱化成の社員として生計を立てながらニューウェーブに携わり続けます。
「いつも言っていたんですよ。“急がんでいい。しっかり足元を固めていこう”って。
急いで潰れたクラブをいっぱい見てきたからですね。
地道にスポンサーとか理解者を増やしていって。
この世界は“なにを売るか”じゃないですからね。
夢を語って、それに同調してもらって、お金を出してっていう世界やから」
同じ福岡県のアビスパ福岡はあくまで「福岡市のもの」であり、北九州市も政令指定都市であり工業で栄える街としての誇りがあり、だからこそ行政も早い段階からバックアップの意思を示していました。
2007年、満を持して九州リーグで優勝して、全国地域サッカー決勝大会(現在はチャンピオンズリーグ)に挑みます。

三菱化成黒崎時代に、監督として何度も跳ね返されてきた全国への重い重い扉です。
「もうとにかくこのチャンスは絶対に活かさないといかんということで選手全員に浸透させて。“このチャンスは来年あるかわからないから、絶対JFLに行こうね”って」
現在も3連戦のリーグが2回行われる「世界一過酷な昇格決定戦」と言われ物議を醸すこともありますが、この時代は金土日で3試合のリーグ戦を行い、勝ち抜けば翌週の金土日にまた3試合、つまり10日で6試合のリーグ戦を闘い抜く強行日程。
それをニューウェーブ北九州は、ファジアーノ岡山に次ぐ2位で、アマチュアの最高峰JFL昇格を達成します。
JFL初年度の2008年を18チーム中10位の成績で終えた北九州は2009年は上位を維持して、Jリーグ入りの条件となる4位以上が現実的なところにいました。
「だからもうここで勝負をかけたんですよね。
正直当時のJFLとJ2ではそんなに年間予算も変わらないから、同じお金をかけるなら絶対にJ2に行ったほうがいいと周りに言い切りましたね」
シーズン後半に向けてJ1やJ2から有力な選手を期限付き移籍などで迎え入れます。
そのうちの1人、徳島ヴォルティスから加わったFW大島康明は9試合5得点、決定的な仕事を果たす活躍ぶりで期待に応えてくれました。

そして悲願のJリーグ入り。
「私らにはほらアビスパがあったから。“とりあえずアビスパを目標にしよう”と言っていて、アビスパと同じステージまでいけたらいいなと思っていて。
でね、立ち上げから10年かかって色んな苦労をしてきたから、やっぱり感無量だったですよね」
このタイミングで小野さんは三菱化成を退職して、改名されたギラヴァンツ北九州へと正式に転職します。
それは相当な決心だったのではないでしょうか?
「職場の部長に相談したら“いいんじゃねえか、お前、好きなことやったら”と。
ただ色んな人から“ちょっと考えたほうがいいぞ”とは言われたけどね」
ここまで出世コースに見向きもせずにサッカー漬けだった小野さんなのだから、部長さんの見立てのほうが正しいと言えるでしょうが、それでは肝心のご家族は…?
「“男の甲斐性やろう”って」
小野さんも九州男児の気骨にあふれていますが、奥様の理解もただものではありません。
専業のフロントスタッフになったと言ってもクラブ体制は構築途上で、選手の評価から遠征先の調整など業務は多岐にわたりますし、とにかくスタッフの人手が足りないから朝6時にグラウンド、そして夜まで仕事をしてから帰宅という日々が続きます。
それでもピッチの上では2010シーズン、J2でわずか1勝しかできずに最下位で終わります。
当時まだ降格はなかったとはいえ、立て直しは必須です。
そこで招聘されたのがJリーグ初挑戦となる三浦泰年監督でした。
北九州での成功とひと区切り
「やっぱり選手に対する姿勢は厳しかったですよね。
それでどうなるかなと思っていたけど、トレーニングの内容を見ていたらいけるんじゃないかなという感じがしましたよね。
質がぐっと上がっていったし、本質的なところではポゼッションという、やろうとしているサッカーもはっきりしていたし」
もちろん監督頼みなだけでなく若手からベテランまで多くの選手が加入します。
三浦監督が率いた2年間でプレーしていたのは、鹿児島のサポーターにとってなじみ深い名前だけでも大島康明、関光博、キローラン菜入、高野光司、武田大の名前があり、鹿児島出身の永畑祐樹と登尾顕徳、大学生の中原秀人、、、、そして、木村祐志と端戸仁。

「僕、最初のトレーニングで見た木村は衝撃的だったですもんね。“こげんうまいやつがおるか”って。
木村も、翌年入った端戸も“こいつらうめえ”って思いながら。
こいつらがうまく噛み合えばおもしろいサッカーができて、そこそこいくんじゃないかなと」
2011年は22チーム中8位と、最下位からのジャンプアップ、2012年もこのシーズンから導入されたJ1昇格プレーオフ圏内の6位以上をうかがう勢いが続きます。
しかし、、、ギラヴァンツ北九州はJ1ライセンスを取得することができず、プレーオフに参加もできないことがシーズンが佳境に入る時には明確になりました。
理由は、ホームスタジアムの本城陸上競技場がJ1基準を満たしていないこと。
「あそこもJFLで随分改装はしたんですけどね。
芝生席も椅子席に変えて、ホーム側のスタンドにもテントみたいな感じで屋根を用意して、ロッカールームもきれいにして。
だから陸上関係者は“使い勝手が良くなった”って喜んだんですけど」
スタジアムに関する話は着々と進んでいて、小倉駅のすぐ近くに新しいスタジアムを整備することも決定していましたが、当時のクラブライセンスにはスタジアム整備に関する例外規定がなく、どれだけ好成績を残してもJ1昇格はスタジアムが完成するまでおあずけでした。
こうして2012シーズンが終わると、三浦監督は現役時代を過ごした東京ヴェルディの監督となり、木村祐志はJ1に昇格した大分トリニータへ移籍して、端戸仁は横浜F・マリノスに復帰していきます。
登尾顕徳と永畑祐樹はそろって契約満了となり、九州リーグに所属する地元のヴォルカ鹿児島へ移籍しました。

2013シーズンは柱谷幸一監督、大嶽直人ヘッドコーチの体制となりました。鹿児島のサポーターにとって大嶽さんの明るい人柄は言わずもがなですが、柱谷幸一さんも似た雰囲気だったと小野さんは振り返ります。
「だからチームがごろっと変わって苦労したみたいです。次の(2014)シーズンは出られなくてもプレーオフ圏内の5位になったんですけど、最初は苦労したみたいですね」
一方で小野さんはこの2013シーズンをもってギラヴァンツ北九州を去ります。
「僕はもう“俺の目標はアビスパに勝つこと”だったから。
だから2012シーズンにアビスパにリーグ戦で勝ったから、その段階で“もう俺の仕事は終わったな、ひと区切りついたな”みたいな」
定年ということもなく、クラブへの不平不満とかでもなく、次に何をするとかは決めていたわけでもなく、ここまではやりたいと思い描いていたことを実現するとあっさり、思い切りよく。
2013年3月に辞意を伝えます。
「ずいぶん止められたんですよね。“功労者だからそんな辞め方はいかん”と社長やGMから止められたけど、“もう俺の仕事は終わりました”と伝えて」
高校卒業以来、約40年を捧げた北九州でのサッカー生活はこうして達成感とともに幕が下りました。
ところが、還暦を迎えていたとはいえ、同年代以上にエネルギーあふれる小野さんの人生は、まったく想像していないところへ進んでいきます。
小野さんが愛してやまないサッカーというスポーツは、小野さんを離そうとはしませんでした。
鹿児島での2周目
ギラヴァンツ北九州を退職して、さて次に何をするかと模索していた小野さんに、鹿児島から連絡が入りました。
このころ鹿児島では、かつてしのぎを削ったヴォルカ鹿児島が、後発のFC KAGOSHIMAと統合して誕生した鹿児島ユナイテッドFCとなってJFLに参戦しようとしていました。
かつてはそのヴォルカの、そしてユナイテッドで運営を担当していた湯脇健一郎から、指導者に転身していた登尾顕徳ヘッドコーチからのつてで連絡が入ったのです。
「最初に湯脇さんから話を聞いて“うわ、またあの苦労をするのか”って思いました」
北九州でプロのサッカークラブを築くために長い時間と労力を投じてきた小野さんは、その険しさを知り尽くしているからこそ逡巡したかに思えましたが、結局は明るく引き受けることにしました。

「また次の目標ができたかなという感じですね。
九州で昔から情熱があるところで、非常にポテンシャルがある地域だろうなと思って、そういうところでクラブづくりに関われたらいいかなという感じですね」
単身赴任になりますが、ここでも奥様は結局「男の甲斐性でしょう?」です。
60歳にして2度目のJリーグ挑戦を選んだ小野さん。
チームの監督や選手を編成する強化は、登尾ヘッドコーチが兼任で担当することになっていました。
普通に考えれば経験も実績も年齢も上回る小野さんが最高責任者であるGMをするのが自然に思えますが、、、
「俺はどうせ戻るけど、お前は地元やからお前がGMをやればいい。俺が補佐するからって感じで」
登尾GMのもとで、小野さんは強化部長に就きます。
それでは鹿児島での新しい挑戦が始まった直後はどのようなことを感じたのでしょうか?
「俺が一番愕然としたのはグラウンドですよ。
北九州は天然芝が3面あったんです、本城に2面と新門司に1面。それで新門司の方をクラブで指定管理とって結構自由に使えるようにしていたんですね。
それで鹿児島は健康の森公園、県立サッカー・ラグビー場、ふれあいスポーツランドとすごいピッチがあるじゃないですか。
“すげえな”と思ったし、どこかが専用で使えるんだろうと思っていたら、どこもそうじゃない。
毎回申請をして、各施設の所長さんに何度もお願いしてコミュニケーションをとって少しずつ利用幅が広がっていったけど。
北薩(広域公園)から薩摩川内市の樋脇、南さつま市、指宿、山川、それからフェリーで渡った垂水でも練習したし、すごい環境でよくやったと思いますよ」

そんな環境でも大久保毅監督率いる選手たちは快進撃を続け、最初のシーズンを3位で終え、成績面ではJリーグ入会条件を満たしましたが、、、J3ライセンスを取得することができず、Jリーグ入りを果たすことはできませんでした。
「“またか”ですよ。いつもそこ。でも行政もバックアップしているし、土地柄もいいからそのうち取れるだろうなという思いはあったんです」
実際に2015シーズン開幕前にJ3ライセンスの前段階であるJリーグ百年構想クラブに認定され、あとは浅野哲也監督を迎えたチームが結果を残すだけ、という状況でした。
前年が3位だったのだから、その目標達成は当然、、、とは外野の見立てですが、、、
「ただサッカーは絶対勝つとか分からないじゃないですか。
でもサポーターは“今日絶対勝つよ”って応援に来てもらうわけで、どんどん増えてきて、報道についてもテレビ局が5社すべてが取材に来てくれていて、非常に鹿児島自体が盛り上がってきているなって感じたんです。
だから絶対にうまくいくよとは感じました」
チームの順位自体はぎりぎりの4位がずっと続いていましたが、小野さんには「上がりそうな要素はある」という、ある種の確信がありました。
9月にはJ3クラブライセンスを取得して、1試合平均2000名以上の条件も最後のホームゲームを残して達成を確定。
かくして最終節のひとつ手前、アウェイの奈良クラブ戦を0-0で引き分けた結果をもって鹿児島の4位以上も最終的に確定し、Jリーグ入りに必要なすべて条件を満たしました。

「チーム一丸となった結果かなという感じですよね。
ようこの2年で行けたなとも思いますし」
クラブが発足した最初のシーズンはそもそもスタッフはほとんどいなくて、現場では鮫島翼という若者が孤軍奮闘。
小野さんもみずから荷物を運んで準備を手伝い、なんとか練習グラウンドを確保できるように各所に頭を下げ続ける日々。
特に大会と重なる週末にグラウンドを確保できない時は、選手たちは公園で身体を動かして翌日の試合に備えるしかないこともありました。
そしてJリーグのクラブになった2016シーズンも状況は変わりません。
「選手のモチベーションをどうやって上げていくかは非常に課題だったでしょう。
とにかく環境を変えてやりたいけど、そんなに簡単にいくことではないし。
給料を上げてやりたいけど、金銭的な余裕もないし。
そんななで勝ちにつながるモチベーションをどうやって持たせるかは大きなテーマでした」
それでもチームは浅野哲也監督のもと一時は首位に立つなどJ2昇格への期待は高まるばかりでしたが、、、9月末にJ2ライセンス不交付が発表されました。
強化部という現場に近い存在でありながら、フロントでもある、そんな立ち位置の小野さんはどんなことを思っていたのでしょうか?
「それは正直悔しいですよ。
ただこれもひとつのクラブだけがどうのこうのではなく、まわりの理解が得られないとどうしようもないし、やっぱり地域の総合力になってくるから。
それでも現場はみんながんばったと思います」
J2昇格の可能性が絶たれた終盤に順位を落としましたが、それでも16チーム中5位。
上々の成績に思えますが、登尾GMと小野さんの視界には目の前の結果以外のものも映っていました。
「当時、登尾ともよく話し合ったけども将来のビジョンをどうするかは考え直そうと。
1年1年勝負するよりもしっかりとしたチーム作りをしようと」
こうして2017シーズン、かつて北九州で同じ時間を過ごした三浦泰年監督が、鹿児島の新しい指揮官となりました。

そこでは条件や待遇以上に「どんな鹿児島のサッカーにしていきたいか」が話の中心でした。
「さっきも言ったけど観に来る人は勝つかどうかはわからないですよね。
それで観に来てもらうからには何かを残さないといかんやろ、と。
勝ったらそれは一番いいけど、負けたにしても“がんばった、あんたがんばったよ”と言われるサッカーを見せなきゃいかんのじゃないかと。
だからヤスさんは姿勢に対しては厳しかったですよね。
もう球際で逃げ腰になろうものならすごくやかましい」
先ほどの浅野監督の時期もですが、三浦監督の時期についても小野さんは多くを語りません。
強化部長として責任と権限をもってチーム作りに携わってきた小野さんにしてみれば、すでにひとつひとつの試合、ひとつひとつのシーズンの結果が出た後のことは、自分の口からどうこう言うものではなく、観る側の判断に委ねるしかないものなのかもしれません。
その姿勢は選手個人個人についても同様であり、ピッチの上で何を見せたかがすべてなのかもしれません。
ふとカレンダーに目をやると11月です。
「嫌な季節だ」と小野さんはつぶやきました。
「自分たちが来てくれと説得して連れてきて、ひとつのシーズンを仲間として闘って、その末に“来シーズンの契約はゼロ円”と告げなければならない。
こんなひどい話はない」
それでも登尾GMと小野さんは、感情がないのかと思われるほどに冷徹にそれをやり続けます。
周囲からたくさんの強い感情を受け止めながら、次のシーズンでより強いチームを築き上げるために信念をもって歩み続けます。
多くのサポーターからはかけがえのないあの選手の居場所をなくしたという怒り悲しみの感情を受け取りながら。
鹿児島ユナイテッドFCというクラブを前に進めるために心血を注いでいきました。

2018シーズン、三浦監督率いるチームは粘り強い闘いで勝ち点を重ね続けます。
当然敗れることもありましたが、それでも次の試合はモノにするタフなチームは、シーズンの最後に初のJ2昇格を達成しました。
小野さんが鹿児島に来てから5年の月日が流れていました。
「やっぱりJ3とJ2ではぜんぜん違うから、J2に入ってついに鹿児島もそのレベルに入ったんだなと思いましたよね」
はじめて入場者が10,000人を超えた景色も、誰も彼もが喜んでいる景色も小野さんにとっても特別な瞬間でした。
そして誰もが浮かれ騒いでいるなかで、小野さんは自身の潮時を感じていました。

J2に挑む2019シーズン、他のチームの陣容を見ながら「苦しいシーズンになるだろう」という予感はありました。
開幕戦の徳島ヴォルティス戦こそ勝利したものの、そこから連敗が続き、降格圏ぎりぎりのシーズンが続きます。
8月に入ると調子を上げ、ジェフ千葉にホームで2-1で逆転勝利、そのままアウェイに乗り込んだ東京ヴェルディ戦では壮絶な打ち合いの末に3-3の引き分け、続くホームで愛媛FCに4-2で逆転勝利、横浜FCには1-5で敗れるも、またもアウェイで金沢に2-1の逆転勝利と意気上がる中で、、、東京ヴェルディに勝ちきれなかったことが、「ここで勝ち点2を取り損ねたことが命取りになるのではないか」という不安が小野さんのなかではずっと渦巻いていました。
そして引き分け以上で残留が決まるところまでこぎつけた最終節、アウェイながら1500人を超える鹿児島サポーターが応援に駆けつけたアビスパ福岡戦。
終盤まで1-1で進みながら勝ち越し点を許し、1シーズンでのJ3降格が決まりました。

試合後に失意の小野さんはアウェイのフロントスタッフに用意された部屋の椅子に座りながら、ニューウェーブ北九州の時代からずっと見てきたアビスパ福岡と様々な差を感じながら、あらためて自身の終わりを考えていました。
「俺の力からしたらここまでかな、ここから先に行くには新しい力がいるな」
このシーズンの終わりに選手として北九州時代から共に闘ってきた永畑祐樹のほかに、鹿児島の象徴ともいうべき赤尾公、そしてプロ10年を超えるキャリアを持つ田中秀人たちが相次いで引退し、強化部に入ることが決まりました。
徐々に自身の仕事を引き継いでもらいながら、1年目からチームの現場で裏方の仕事に尽くしてきた鮫島翼も含めて、彼らに後を託し、6年を過ごした鹿児島を去ることにしました。
「心残りはあったけれどやり遂げたかなという感覚もあったんですよ。
選手のおかげでJ3、J2と昇格もさせてもらったし。
昇格というのはある意味エベレストに登るよりも難しいんじゃないかなと思いますよね。
サッカーではいい選手を連れてきても怪我で出られなかったり、チーム戦術がうまく回らないときもあるし。
そんな世界で貴重な経験を2回させてもらえて、やり遂げたかなという感じです」

数少ない心残りは、喜入で整備に向けて動いていた鹿児島ユナイテッドFCの専用グラウンドの完成を見届ける前に鹿児島を離れるようになったこと。
ずっとクラブの専用練習場を整備するべく土地を求めて動いてきた中で、最終的に候補となった喜入。
小野さんは実際に「喜入いきいき広場」の寸法を図り、グラウンド3面が確保できることを確認して、徳重剛クラブ代表に報告していました。
プロの練習頻度と強度を考えれば天然芝のグラウンドは2面必要であり、高校生中学生年代のアカデミーの選手たちにとってはトップの練習をすぐ間近で感じることがなによりの教材だというクラブの考えがありました。
クラブハウスにはどんな設備が必要かという打ち合わせも業者と行っていました。
着々と下準備を進めていた専用練習場とクラブハウスの完成も、クラブに残るスタッフに託して、小野さんは家族の待つ北九州へ帰りました。
そしてまた鹿児島へ
2020年2月に小野さんは北九州に戻り、サッカーとは関係のない仕事をしながら、自身が情熱を注いだギラヴァンツ北九州と鹿児島ユナイテッドFCを遠くから応援していました。
後事を託した田中秀人や永畑祐樹、鮫島翼たち、そして登尾GMも力を尽くしますが、鹿児島はなかなかJ2再昇格には届きません。
大嶽直人監督を迎えた2022シーズンは優勝争いまで演じますが、最終的には3位で勝ち点1の差で昇格を逃します。
今度こそはの想いで挑んだ2023シーズンも夏場に連敗が続き、大嶽直人監督は退任。
さらに責任を負う形で登尾GMもみずから職を辞しました。
選手を退いたばかりで、30歳を過ぎたばかりで新たに鹿児島の希望を背負ったプロサッカークラブのGMという重責を背負ってきた若者の歩みをずっと支えてきた小野さんが何を思ったかは、、、
当人同士だけにしか分からない絆があり、今もその絆は濃く深く強く結ばれているということだけ伝えさせて下さい。

鹿児島ユナイテッドFCはその後、かつて北九州で共に闘った木村祐志や端戸仁たちの活躍もあってJ2昇格を果たし、しかし翌シーズンはまたも1シーズンでのJ3降格となりました。
それらのすべての流れを小野さんは北九州で静かに受け取っていました。
小野さんが途中で離れざるを得なかった喜入では、2021年10月に専用練習場ユニータのグラウンド部分が完成し、トップチームはずっと同じ場所でトレーニングできるようになりました。
2024年にはENEOSが所有するホテルだった建物を譲り受ける形で、トップの若手選手とアカデミー選手の寮ができました。
2025年の5月にはついにクラブハウスが完成し、トレーニングが終わってすぐにケアを受けたり、何より食事を摂れるようになろうとしていて、、、

2025シーズンが開幕したばかりの3月のある日、かつての同僚であるクラブスタッフと小野さんは電話で世間話をしていました。
喜入のハード面が充実するのは喜ばしいことでしたが、使われていなかった寮のメンテナンス、クラブハウスを使えるようにするための準備、食事を提供するための体制づくりなど、やるべきことは山積していて、しかも人手は明らかに不足していましたし、誰でも良いわけではなく選手のそばにおいても不安のない人材である必要もありました。
そんな話を聞いた小野さんは軽く答えました。
「行っちゃろうか?」
「本当ですか?本気にしちゃいますよ」とクラブスタッフは笑っていましたが、、、
GW明け、古希を過ぎた小野さんは再び鹿児島へと足を踏み入れていました。
前の安定した職を辞して。
奥様は、、、今度も「男の甲斐性でしょう」です。

今回の立ち位置は米倉喜入エリアマネージャーが責任者を務めるクラブハウスや寮の運営サポートです。
DIYで寮やクラブハウスの細々としたことを整えています。
この取材も小野さんの新しい職場であるクラブハウスの事務室で行われたもの。
やることはたくさんですが、前回の単身赴任と比べて今回は寝泊まりするところも三食もついているから恵まれていると笑います。
好々爺然ですが、やはり小野さんのサッカー熱はちょっと普通じゃありません笑
結局、サッカーは小野さんを離してくれませんでした。
ここまでの流れでも察することができると思いますが、小野さんはけじめをしっかりつける方です。
再びクラブの一員となった今、相馬直樹GM兼監督率いるチームについては多くを語りません。
ただこれからのシーズン最終盤にかけて、何度も昇格争いをしてきた経験から感じることを話してくれました。
「昇格というところはどこも狙っている目標ですよね。
だからその目標を明確にして、もうとにかくそこに絞って人生を懸けてやるという意気込みが強いチームが勝つでしょうね。
過去に昇格したときのチームにそれはありました」
ニューウェーブ北九州がJFL昇格を果たしたときの表現も引用すれば「このチャンスは来年あるか分からないから、絶対上に行こうね」。
そういえば小野さんがギラヴァンツ北九州を離れたのは「アビスパ福岡と同じステージに行って、アビスパに勝つ」という目標を達成したことが大きな理由でした。
5年前に鹿児島ユナイテッドFCを離れたのも「J2に昇格する」という目標を達成したことが大きな理由でした。

70歳を過ぎて、あらためて鹿児島で単身赴任をしている小野さんは、今、どんな目標、言い方を変えれば鹿児島での幕引きを描いているのでしょうか?
その問いに対する答えとして、小野さんは旧友から言われたそうです。
「今度はJ1まで鹿児島におってくださいよ」
