【3月2日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2024 vol.01
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は3月2日に行われる2024明治安田J2リーグ第2節、鹿児島ユナイテッドFC vs 徳島ヴォルティスのマッチデープログラムです。
日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2024年2月25日(日)2024明治安田J2リーグ第1節
vs ザスパ群馬 会場:正田醤油スタジアム群馬(群馬県前橋市)
鹿児島にとって2019シーズン以来となるJ2開幕戦。
アウェイ群馬には300名を超える鹿児島サポーターが鹿児島から、そして全国から集まった。
群馬に最初のシュートを打たれたあとの7分、ボランチの山口卓己から前の隙間に入り込む藤村慶太に縦のパスが入り、さらにペナルティエリア内に侵入した右サイドバック渡邉英祐がゴール前に入るンドカ チャールスへ送ったボールがクリアされたところを、トップ下の田中渉がミドルで狙う。
18分、コーナーキックのこぼれ球を左サイドバック野嶽寛也が叩いたシュートは枠の上。
32分、センターバックの戸根一誓から渡邉、田中、渡邉とつないで左サイドの米澤令衣が入れたクロスにンドカが頭で合わせる。
41分、左サイドのフリーキックで田中が入れたボールはあわやオウンゴールという機会を作る。
42分、ショートコーナーから田中のミドルシュート、群馬にブロックされたところを今度は米澤が素早く狙ったシュートも防がれる。
前半終了間際のフリーキックから打たれたヘディングはGK泉森涼太がキャッチして、前半はスコアレス。
後半に入った56分、左サイドで山口、藤村、山口、米澤、藤村とダイレクトでボールがつながり、さらに山口、米澤、野嶽、米澤とつないでンドカへのパスがカットされると今度は田中がフリーでチャンスを迎えるが決まらない。
59分、右サイドから渡邉が入れたクロスがヘディングで返されたところに待ち構えていた米澤が得意の左45度からシュートを打つがわずかに外れる。
しかし65分、自陣内で群馬に与えたフリーキックからゴール前を通過したところをヘディングで合わせられ先制を許す。
群馬にカウンターの場面を作られながらも同点を目指す鹿児島は81分、群馬陣内でのパス回しに対して途中出場の藤本憲明、武星弥、鈴木翔大、米澤たちが執拗に追い回す。
しっかりとしたパスワークで打開しようとする群馬に対して、藤本と鈴木が連携してボールを奪うと、藤本がそのまま打った強烈なシュートがニアサイドに決まって同点。
86分、渡邉のスローインから鈴木が頭で背面に送ると、フリーで受けた藤本から左タッチライン際の米澤へパスが渡り、途中出場の左サイドバック外山凌が内側を追い越し、ゴール前へ入れたボールがこぼれたところを藤本が狙うが決まらない。
88分、群馬右サイドからのクロスを頭で合わされるが泉森がかきだして防ぐ。
5年ぶりのJ2開幕戦は1-1で引き分け、勝ち点1を得た。
大島康明 監督コメント(2月27日トレーニング後の共同記者会見より抜粋)
開幕戦を終えて
チーム全体としては勝ち点3を取りたい欲が強かったです。
だから開幕戦を経てより欲しいものを手にしたいと、選手もスタッフも含めて同じ気持ちです。
当然1を取れたことは評価していますが、やはり自分たちが目指すのはすべての試合を勝てるように最大限努力していくことなので、次の勝ち点3を目指す意欲が出ていると思います。
群馬戦で新加入選手が見せた効果
彼らの効果というよりはチーム全体で作っているプレーの方向性や狙いの再現性が高い選手がスタメンとしてピッチに立っていています。
特に新加入選手だからとかはありません。
もちろんンドカ チャールスや田中渉などは特徴があり、そういった部分も出してくれていたとは思います。
セットプレー対策
まずはセットプレーを与えないところをミーティングで選手たちと確認しています。
その上で、セットプレーを与えた時も徳島さんの長所をしっかりと抑えられるようにしていきたいです。
プレスの強度
群馬さんに対してどうチームとしてのプレスをかけていくかを実行したことで、あの(藤本選手の)ゴールが生まれました。
チームで取ったゴールだとすごく思っています。
より狭いスペースで強度の高いディフェンスに対しても自然にプレーすることで、J2でも守備の強度を剥がせていけるという自信はついたと思います。
サポーターに向けて
ホームでいっしょに勝ちましょう。
藤本憲明 選手コメント(2月27日トレーニング後の共同記者会見より抜粋)
開幕戦を終えて
アウェイで結構難しい試合でしたが勝ち点1取れたことは大きいですし、みんなのなかでは勝ち点3取れたはずという悔しい思いもありますが、次の試合にぶつけたいです。
前半に相手を押し込めた中で1点取りたかった思いもあるでしょうし、失点してしまった修正点もあります。
課題はしっかりトレーニングで克服して、いい部分を伸ばしてホーム開幕戦では勝ちたいです。
得点の場面を振り返って
ああいう前線からの守備は自分たちの良いところであり、ショートカウンターは常に狙っているところです。
それが決まって良かったですし、ホーム開幕戦に向けて弾みがつきました。
去年からやってきたことが結果につながりましたし、個人としても結果が出たことは今後に生かせるのでゴールを決められて良かったです。
前線の選手の守備
僕たちが二度追い三度追いすることでボールを奪える形にハメやすくなります。
同時に後ろからリスク管理もしてくれていて、自分たちのところを突破されても後ろがしっかり守ってくれているという前からの信頼もあるので、前から奪いに行きやすいです。
チーム全体として感じること
連戦になるので全員の力が必ず必要になります。
誰ひとりとしてチームのために走れない選手はいませんし、全員がチームの力になれるよう準備して、ホームに向かいたいです。
ホーム開幕に向けて
やはり去年の最終戦のような雰囲気を作って欲しいという思いと、その期待に応えるのは自分たちなのでいい準備をしたいです。
僕たちも結果は出すものなので、信用していただいて1万人超えて欲しいです。
田中渉 選手コメント(2月27日トレーニング後の共同記者会見より抜粋)
開幕戦を終えて
やっと始まったという思いと勝ちきれなかった悔しさがあります。
勝ち点3を取れる試合でしたし、その悔しさは全員が持っています。
自信があるプレー
ボールに関わるところは自分の特徴ですし、どんな試合でもやらないといけないところです。
そこで、得点やアシストができなかったのは自分の課題です。
チームとして成長したところ
シーズン始動の時に比べたらチームの連携やコミュニケーションは取れているので、前半は厚みのある攻撃ができたと思います。
僕にもチャンスがあったので、そこをしっかり決めきれる選手になりたいです。
鹿児島での初ホーム鴨池に向けて
本当に楽しみですし、大勢のサポーターの前で必ず勝ち点3を届けたいと思います。
徳島の印象
個人個人ですごく技術のある選手が多いので、そのなかで鹿児島のチーム力で上回って必ず勝ちたいです。
まずは攻守でハードワークしてチームのために走ることを忘れず、一番は得点を狙ってゴールを決めたいです。
特にトップ下のポジションはゴールに関わることが大事なので、そこの意識はより強くもっています。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.20(Total vol.32)」
内薗大貴さんのサッカー選手生活とその後
コンビニで買ってきた食パンに辛子を塗ると、タッパーからスプーンでよそった具材を盛り付け。
刻んだゆで卵にマヨネーズに…こちらも細かく刻んだスナップエンドウ。
「スナップエンドウたまごサンド」をほおばると、卵とマヨネーズの濃い味わいと辛子の定番に、スナップエンドウのほのかな甘みと野菜ならではの味わいが良いアクセントになっています。
何よりシャッキリシャッキリした歯ごたえが具材のいたる所に散りばめられていて、レタスでは得られない魅力がつまっていました。
半分くらい口にした後、目の前の男性は「まあまあかな」と微笑みました。
確かに。
すでに十分美味しいサンドでしたが、塩コショウの分量なのか、スナップエンドウの水切りなのか、あるいはオリーブオイルとかつぶつぶマスタードとか別の要素を足すべきなのか、素人にはよく分かりませんが、工夫次第で大化けする可能性が感じられます。
目の前には太平洋を望む小高い畑。
水平線には種子島と屋久島が見えます。
故郷指宿で農業をしている内薗大貴さんは、今の自分のことと、サッカー選手だった頃のことを振り返ってくれました。
現役時代から変わらない、飾り気のない語り口で。
大学生時代まで(1987-2009)
今では指宿市となった揖宿郡山川町で生まれ育った内薗さんは、2歳上のお兄さんに影響されてサッカーを始めます。
小学校時代は地元の大成小学校で過ごしていましたが、中学校に上がるタイミングでもっと強いところでサッカーをしたくなり、加治木のクラブチーム「アミーゴス鹿児島U-15」に加入します。
優秀な選手の1人、U-12に所属していた2歳下の小柄な左利きの少年も後にプロサッカー選手になっていくのですが、それはまた別の話。
中学を卒業すると鹿児島城西高校へ。
2歳上には兄がいて、高校卒業とともにJリーグ入りする中山博貴さんや吉井孝輔さん、そして田上裕という左サイドバックがいて、鹿児島実業高校とならぶ強豪に成長していた時代。
それでも内薗さんは2年生の時にアミーゴス鹿児島が当時は珍しかったU-18チームを立ち上げるのに伴って、サッカー部を辞めてアミーゴス鹿児島U-18でのプレーを選びます。
高校時代に目立った戦績はありませんでしたが、サッカー部の強化に乗り出していた愛知県の東海学園大学に進学します。
名古屋グランパスエイトなどでプレーした安原成泰監督のもと、東海学生サッカーリーグ3部からはじまり、2部昇格、1部昇格、夏の全国大会「総理大臣杯」にも出場、内薗さん個人はJFLのFC刈谷でもプレー。
東海学園大学は、FC岐阜に加入した高校時代からの同級生である山内智裕さんを皮切りに次々とプロサッカー選手を輩出して…言うまでもなく鹿児島においては戸根一誓、福田望久斗、そして井堀二昭と系譜が続いてます。
「東海学園大学は技巧派が多くて、やっぱりビルドアップとか後ろからでもしっかりつなげないと出られないサッカーをしていますから。それもあってユナイテッドが興味を持ってくれているみたいですね」
それまでの内薗さんもどちらかといえば攻撃の組み立てを評価される選手でしたが、安原監督を通じて身体の強さや粘り強さから守備の適性を見出されたのも、この大学生時代のことでした。
FC KAGOSHIMA時代(2010-13)
2010年春、大学を卒業する時にチームを探していた内薗さんが紆余曲折を経てプレーすることになったのは「鹿児島からJリーグ」を実現するために発足したFC KAGOSHIMA。
田上裕選手兼監督が率いるチームは、最初のシーズンで鹿児島県1部リーグから九州リーグへ昇格。
翌2011シーズンは同じく九州リーグで「鹿児島からJリーグ」を目指す先輩クラブ、ヴォルカ鹿児島と上位争いを続けます。
待遇も練習環境も恵まれているとは言えない時期でしたが、内薗さんは表情を変えることなく淡々粛々と、しかし手を抜くことなくサッカーに取り組んでいました。
「とりあえず俺らはサッカーやらせてもらってる立場だったし、何にも返せるものがなかったから、もうピッチ上で走り回って、がむしゃらにやるしかないっていう考えしかなかったですね」
前線では後にユナイテッドでプレーする谷口堅三さん、前田将大さん、そして田上裕が次々と相手ゴールを攻略する強力な3トップがいて、内薗さんは中盤で長短のパスを駆使してその攻撃を支えます。
しかし2012シーズンになると同じポジションにJリーグ出場200試合を超える経験豊富な米田兼一郎さん(現テゲバジャーロ宮崎コーチ)の加入など様々な要素が重なり、出場機会を失います。
出られても最後の数分、ベンチやスタンドからチームメイトのプレーを見つめながら試合終了を迎えるばかり。
しかし、内薗さんは表向き何も変わることなくサッカーに取り組み続け、練習や練習試合ではしっかりと自分がチームに貢献できることを示し続けます。
FC KAGOSHIMAとしては九州リーグを初優勝してJFL昇格に近づきますが、全国地域リーグ決勝大会(現在は全国地域チャンピオンズリーグ)で敗退。
「あのシーズンが終わって、移籍しようと思ったんですよ。まだ自分でも全然できると思ったし、若かったし。色々なチームに練習参加させてもらってやるつもりではあったんですけど」
それが翌シーズン監督に就任したドイツ帰りの指導者、片山博義さんが「チームに必要だ」と認めてくれたことで一転してチームに残り、出場機会を増やしていきます。
6月に片山さんが退任して、コーチだった大久保毅さんが監督になると、後にユナイテッドで活躍する水本勝成さんとセンターバックを組む機会が増えてきて、さらなる可能性を広げます。
苦しい戦いの連続にも弱音を吐くことなく、実直に闘い続け、前年敗れた地域リーグ決勝大会を勝ち抜き、鹿児島から初の全国リーグ昇格を達成しました。
しかし、その激闘の一方で、どんな状況においても、選手としてすべての力をピッチ上で出し尽くすことは当然の大前提としてやり切りつつ、頭の中にあったのは同級生の赤尾公(現ユナイテッド強化部長)や山口純さん(現レイナ川内レディース代表)がいるヴォルカ鹿児島と統合したほうがいいのにという想いでした。
「まわりはともかく、選手同士は仲良かったし、選手は1年が勝負ですから。Jリーグとか上のカテゴリーとかでプレーするとか、もっと稼ぎたいっていう選手がほとんどですから。ちゃんとした環境でプレーするために、まとまってひとつになってくれればいいのになってずっと思ってました」
その願い通り、2013年夏に両クラブの統合が決まり、昇格を経て誕生した新しいクラブ、鹿児島ユナイテッドFCは、日本フットボールリーグ(JFL)からスタートします。
鹿児島ユナイテッドFC時代(2014-17)
地域リーグから全国3位で昇格したFC KAGOSHIMAと4位になったヴォルカ鹿児島の2チームから選りすぐったメンバーで臨む全国の舞台。
「鹿児島はどのくらいできるのか?」という期待と不安が入り混じりながらはじまった2014シーズン、鹿児島ユナイテッドFCは快進撃を続けます。
2ステージ制で行われた第1ステージでは終盤8連勝を記録するなど14チーム中2位。
第2ステージ序盤は連敗で出遅れますが、徐々に立て直したチームは勝ち星を伸ばし、最終的にはJリーグ入会条件となる4位以上を超える3位ではじめてのシーズンを終えます。
内薗さんもボランチとして26試合中22試合に出場し、得点も挙げました。
それでもクラブとしてはJリーグ入りに必要なJ3クラブライセンスを取得することができず、一方で4位だったレノファ山口FCはピッチ外におけるすべての条件もそろえたことでJリーグ入会を果たします。
「仕方ないやんって。Jリーグへの憧れはあったけど、それは自分らではどうしようもできないことですし。(J3に)上がれるならその年に上がりたかったですけど、JFLでできたっていう喜びもあったし。そんなにめちゃくちゃ腹が立ったとかっていうのはなかったですよ」
元日本代表MF浅野哲也監督のもとで迎えた2015シーズン、クラブとしてはJ3クラブライセンスを取得し、入会の条件である「1試合平均入場者2,000名以上」に向けて着実に歩みを進めていきます。
後は昨シーズンと「同じように」選手たちがピッチ上で結果を残すだけ。
「やっぱり1年目にJFLを戦った感じとは違うんだなっていうのは思いました。去年は3位で今年は結果を出せばJリーグに上がれるって選手も思ってるじゃないですか。去年あんな戦い方ができた、だから鹿児島が上がって当然みたいな空気もあったけど、でもやってみたら、やっぱりプレッシャーもあった」
序盤からJリーグ入会の条件である「4位以上」を保っていたものの、JFL昇格1年目にして上位争いに食い込む奈良クラブやFC大阪、そしてアスルクラロ沼津が背後から迫り、なかなか安堵できる状況にはなりません。
それでも粘り強く闘い、勝ち点を積み重ねたユナイテッドは最終的にJリーグ入会を達成しましたが…30試合中20試合に出場した内薗さんは、終盤には出場機会を失い「達成感はあまりなかった」と率直に振り返ります。
そしてJリーグの選手として迎えた2016シーズンはさらに出場機会は減って、リーグ戦3試合の出場。
浅野哲也監督から三浦泰年監督に代わった2017シーズンは一度も公式戦のピッチに立つことはありませんでした。
……それでも内薗大貴は変わることなくトレーニングに向き合い続けました。
「それも大学の監督の教えなんですよ。それこそ大学で試合に勝てない時とか、うまくチームがいかない時とかって悩んだんですよ。特に大学4年の時点で結果が出ないとプロから声もかからないし、って勝手な想像を膨らませてたんです。そうしたら安原さんが自分の部屋に来て。
それで“お前、何のためにサッカーやってるの?”って。
僕らって試合に出ていいプレーしたいって思うじゃないですか。
だけど“ちっちゃい時にサッカー始めたきっかけとかサッカーを続ける理由って、点取るとか、なんか活躍するとかじゃないと思うんだよ。ちょっとでもこれが少しできるようになったとか、成長したっていう実感があったから、多分続けられたと思うんだよね”
みたいなことを言ってくれて。
でも“大人になったら色々とサッカーでお金もらえるとかモテるとかそういうのがくっついてくるけど、サッカー続けてる間は、なんかそういう原点を絶対忘れたら駄目だよ”
みたいな感じで言ってくれたから、確かになと思って。
それがあったから試合に絡めなくなってもブレることがなくなりました」
特に出場機会の少なかった2012シーズン、2016シーズン、2017シーズンも内薗さんは変わることなくトレーニングを続けました。
FC KAGOSHIMA時代、そして鹿児島ユナイテッドFC時代のチームメイト、誰もが「ヒロタカさんは本当にブレない」「本当に気持ちが強い」と称賛を惜しみません。
まるで薩摩の伝統「負けるな、嘘をつくな、弱いものをいじめるな」の精神を良い意味で受け継いでいる志士であるかのようです。
もちろん悔しい思いがないわけはありません。
ユナイテッドを契約満了となった時点で30歳。
同じタイミングで契約満了となった山田裕也選手が現役を引退して指導者に転身したように、故郷で現役を終える選択肢もあったはずですが「このままでは終われない」とトライアウトにも参加して、次なるチームを探します。
そして当時のテゲバジャーロ宮崎の石崎信弘監督(現ヴァンラーレ八戸監督)たちが「必要な選手」と判断したことによって、当時JFLに昇格したばかりの隣県のクラブで現役を続けることになりました。
テゲバジャーロ宮崎時代(2018-2023)
鹿児島時代に続く2度目のJリーグへの挑戦。
「鹿児島でやることと、宮崎でやることは変わりません。もう我慢するところは我慢しないといけないし、表に出るところは出ないといけないし」
途中出場が多く、出番は限られましたが、当時の関係者たちが「彼が入ると攻守が引き締まるし、欠かせない選手なんですよ」と語っていたように一定の存在感を発揮します。
2018、2019シーズンとJFLで地歩を固めて迎えた2020シーズン。
宮崎初のJリーグ入会が狙えるところまで来ていた10月、何も変わることなくプレーしていた内薗さんに、まったく予想しない事態が襲います。
「1ヶ月くらい血便が続いていて、で、あまりにも酷いから看護師の妹に聞いたら“病院に行ってみたら?”って。それで鹿児島にいた頃にかわいがってもらっていたおばちゃんがいたんですけど、病院嫌いだったんだけど、ずっと体調が悪かった時に旦那さんに言われていったら…っていう話を聞いていたので、なんかあのおばちゃんが気づかせてくれたのかなって、勝手に思っているんですけど」
診察の結果は大腸がん。
内薗大貴選手について – テゲバジャーロ宮崎-オフィシャルサイト (tegevajaro.com)
「びっくりして、これで引退だなって思っていたんですけど、切ってつなげたら問題ないって言われたので」
内薗さんは変わることなく言葉を続けます。
「“絶対戻る”とかめちゃくちゃ強い思いではなかったですけど、いつかは戻れるようにはしたいとは思っていましたね。気負っても、あんまり意味ないですから。あの時は33歳でもう年齢が高くなっていたから、そんなに思わなくなっていましたね。鹿児島でJFLにいた1年目2年目とかはやっぱり試合に出ないとサッカー続けられないとか思ってたんですけど」
熱意がないということではなく、自然体でやるべきことをちゃんとやりつづける。
顔や言葉にあまり出さないから伝わりづらいこともあるけれど、内薗さんはプロのサッカー選手としてピッチに帰るために少しずつ少しずつ進んでいく男であることは、日々の過ごし方を通じて誰もが認めるところです。
病室で迎えたテゲバジャーロ宮崎のJリーグ入会達成の報。
そしてリハビリを経てチームに復帰した内薗さんは2021年4月25日の南九州ダービー、鹿児島ユナイテッドFCとのアウェイ戦で鴨池に帰ってきます。
内薗さんはベンチには入りましたが出場機会はなく、初対戦は1-0でユナイテッドの勝利。
「あの時は出たかったですね。鹿児島の選手とかサポーターとか、すごく連絡をもらいましたし、募金もしてくれたし。(田上)裕さんに“ただ切ってつなげるだけでまじで大丈夫だから、いらないですよ”って言ったんですけど、色々やってもらって申し訳ないって思ったからピッチに立ちたかったんですけどね」
2022年10月と2023年4月の対戦時には後半途中から、慣れ親しんだ鴨池のピッチに立つことができました。
「(途中出場から2アシストした)ノリにやられましたね」と苦笑いしながら、2シーズンともにプレーした藤本憲明選手について話をしてくれました。
「こいつ点取るなって思っていたけど、あんなになるとは思わなかったですね。でも結局大分の1年でJ1に行って、神戸でイニエスタといっしょにプレーして。あいつが行くチームって必ず良くなりますよね。キャラが良いですもんね。性格が壁を作らないというか。ああいう性格の選手がいるとなんかチームの雰囲気が良くなるんだなと思いますね」
2度目のJリーグで、鹿児島やかつてのチームメイトと対戦できたことは感慨深いものがありましたが、同時に昨シーズンの鹿児島からは「昇格しなければ」のプレッシャーが相当かかっていることも感じ取っていました。
一方で、その「藤本選手にやられた」ころには現役引退を決意していました。
指宿に暮らす兄が大病を患ったのです。
「3月の時点でもうやめるって決めました。兄貴のことを電話で聞いて“じゃあもう、やめる。もう近くにいる”って自分で決めて。俺がサッカーはじめたのは兄貴のやってる姿を見たのがきっかけ。だから辞めるきっかけも兄貴でいいかなっていう、そういう区切り、思いもあったから」
大学を卒業して14年目を迎え、同年代の仲間はほとんどが引退していて、だからこそ内薗さんは現役生活が終わることをいつでも受け入れる覚悟とともに、宮崎での日々を過ごしながら1日1日真剣にサッカーに向き合っていたからこその決断でした。
その覚悟があるからこそ宮崎での内薗さんは自分がどう思われるかを気にすることはなく、より率直にチームのために、仲間たちのためにふるまってきました。
シーズン終盤の第36節、アウェイのFC大阪戦でシーズン初先発。
ホーム最終戦の第37節、カターレ富山戦では双子の娘さん、息子さんと手をつないで入場。
実はそれが最初で最後の機会でもありました。
「引退する年に、最後の最後のホームであの2人を抱っこできたから、良かったですよね。試合は0-6で負けちゃいましたけど、鹿児島にもなんか申し訳なかったな。試合終わりにユナイテッドの選手が“宮崎何してんの?”って言ってんだろうなっていうのが想像できましたけどね。それで(五領)淳樹と話したら“俺とノリが一番言ったよ笑”って」
アミーゴス鹿児島U-12の小柄な左利きの少年とはずっとつながりがあり、2015シーズンから3年間チームメイトとしてプレーした仲間です。
「“もう今年35歳だよ”って言ってたけど、あいつは40歳までやれると思いますよ」
内薗さんは外交辞令ではなく、本当にそう思っているからそう言う、という人間です。
故郷で、農家として(2024~)
引退した内薗さんは家族とともに指宿市に帰ってきました。
山川でお父さんといっしょに野菜を育てて、収穫して、出荷する生活を送っています。
「朝7時半に起きて、8時半に畑に行って2時間収穫して、昼また2時間収穫して、家に帰って家族と過ごして」
規則正しい肉体労働に励む生活で「現役の頃よりぐっすり眠れているんですよ。慣れてない作業だからかもしれませんけど」と笑います。
今の時期はスナップエンドウの収穫がピークで、これからオクラ栽培の季節。
まだはじめたばかりの農業ですが、農作物に加えて「ああしたい、こうしたい」の思いは尽きません。
グリーンファーム喜入や道の駅喜入、宮崎など各所で自分が収穫したスナップエンドウを販売してもらっているのは手始め。
「色々東京とかで仕事とか決まったりしているし、また見つけていきたいですけどね。まわりの農家の人たちと絡めて“僕がやりますよ”って、自分の人脈でつなげていきたいです。意外と鹿児島の人が良さを分かっていないって思うことが多くて。この2ヶ月ぐらい“こんな感じなんだ”って。めちゃくちゃいい野菜とかあるのに結局は直で食べる人たちに行ってないとかっていうのが実際ほとんどだから。だからなんかもったいないなとか思いながら、でも世の中の仕組みのことも勉強しながらですよ」
冒頭のスナップエンドウたまごサンドの試作もその一環。
味はいいのに形が良くないと買い取ってもらえず捨てるしかない野菜をどうにか活用できないものか、実際に料理する人たちに使ってもらってブランド化できないかという思いがあってのもの。
引退してからの内薗さんは、選手の頃より少しだけ多めに表情を表に出しながら、想いを口以上に行動で表現しています。
そんな内薗さんは今、現役生活をどのように振り返るのでしょうか?
「他の人では絶対できないような経験をサッカーでさせてもらったっていう自信はありますね。どれがいいとかっていうのはないですけど、なんかこうやって面白おかしく話せるようなサッカー人生ではありました。宮崎はある程度でき上がっていましたけど、高校も大学も鹿児島でも結局ずっと立ち上げでしたから。色々な人間模様も見れたし、そのチームが強くなっていく過程も見れたし。なんかこうやって組織って大きくなるんだっていうの感じられましたし。でもサッカーはもういいです笑。もうプレーも指導者も、もういい笑」
鹿児島のJ2開幕も、宮崎のJ3開幕もライブではなくハイライトで見たそうです。
「鹿児島が1-1って見て“どうせノリが取ったんだろ”って言ってたら本当にノリだった笑。あいつはJ3より上のカテゴリーのほうがやりやすいんじゃないかなって去年から思ってました」
36歳までサッカーを続けた経験を土台に、サッカーを通じて得た人と人とのつながりを財産に、内薗さんは指宿で農業という道を進み始めています。
内薗さんという鹿児島ユナイテッドFCのOBをきっかけに、鹿児島の野菜が持つ可能性に、鹿児島の人たちこそが目を向けてくれたら、内薗さんにとってそれは大きな喜びと言えるでしょう。
宮崎のサポーターには引退セレモニーで伝えたでしょうから、鹿児島のサポーターに向けて伝えたいことはないかたずねました。
「今まで応援していただいた皆さま、ありがとうございました。鹿児島ユナイテッドの歴史の一員になれて誇りに思います。これからも皆さんの後押しで鹿児島ユナイテッドを大きいクラブ、サッカー界を盛り上げて欲しいです」
すべてが終わり、別れ際こちらから「次は鴨池で」と声をかけました。
内薗さんはさわやかに微笑みながら手を振ってくれました。
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