【3月24日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2024 vol.03
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は3月24日に行われる2024明治安田J2リーグ第6節、鹿児島ユナイテッドFC vs 横浜FCのマッチデープログラムです。
日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2024年3月16日(土)2024明治安田J2リーグ第3節
vs ジェフユナイテッド市原・千葉 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
ジェフユナイテッド市原・千葉をホーム鴨池に迎えた第4節
10分、右サイドから入ったクロスを収められ鹿児島守備陣が寄せるが素早いターンからのシュートで先制を許す。
21分、千葉が前へ送ったボールを戸根一誓がカットするとそのまま前線の米澤令衣へ。
米澤が出したスルーパスを受けた藤本憲明が同点。
22分、鹿児島陣内で藤村慶太がカットしたボールを田中渉が持ち上がってスルーパス。
千葉守備陣の背後で受けた藤本がGKに倒れてPK。
GKの動きを見極めたキックで逆転。
28分、藤村が巧みにボールを持ち上がって五領淳樹とのコンビネーションで抜け出すとゴール前へ。
GKが弾いたところを藤本が米澤へすばやく送り、米澤が決めて3-1。
さらに千葉と鹿児島の双方にチャンスが行き交う75分、千葉が左サイドから上げたクロスからのヘディングはポストに当たるが、押し込まれて1点差。
直後の79分、千葉陣内で藤村が持ったボールがタックルでこぼれたところを渡邉がダイレクトで浮かせて左サイドの米澤へ。
米澤のクロスを逆サイドで西堂久俊がトラップから左足で蹴り込んで4-2と再びリードを広げる。
4-2で勝利した。
2024年3月20日(水・祝)2024明治安田J2リーグ第5節
vs 大分トリニータ 会場:レゾナックドーム大分(大分県大分市)
大分トリニータとのバトルオブ九州となった第5節。
2分、泉森涼太からのゴールキックを今季初スタメンの武星弥が競り、こぼれたボールを藤本憲明が背後へ送り、そのまま武がゴールに迫る。
3分、クリアボールを拾った野嶽寛也がゴール前に送ると、岡本將成が落としたボールを米澤令衣が受けて左足でシュート。
しかし7分、昨シーズンまで鹿児島でプレーした薩川が縦への突破と見せかけての右足でクロスを上げ、ヘディングで先制を許す。
10分、大分コーナーキックの変化からゴール前に送られたボールを決められ0-2。
35分には左サイドのフリーキックからまたもヘディングで合わされ0-3。
3点を追う鹿児島は47分、右サイドから中に入った武、野嶽、左サイドの米澤とつないでゴール前のクロスに藤本がボレーで合わせる。
59分、田中渉の直接フリーキックはGKがはじき出す。
74分、左サイドからつないだボールがこぼれたところを右サイドバックの渡邉英祐がペナルティエリア内右側へ送り、西堂久俊がドリブルから逆サイドを狙ったシュート。
85分、自陣内の渡邉からンドカ チャールス、左サイドの福田望久斗へ渡り、福田のクロスが流れたところを収めた西堂が左足アウトでシュートするがバーを叩く。
そのままタイムアップ、0-3で敗戦した。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.22(Total vol.34)」
辻勇人さん(フジタ開発株式会社 勤務)
「おーおー、ゲットゴール! おーおー、つじはやーとー! おーおー、ゲットゴール! おーおー、つじはやーとー!」
赤いユニフォームを着たサポーターたちは目を赤くしながらTHE BLUE HEARTSの「TRAIN TAIN」を元にしたチャントを歌います。
白と水色のユニフォームを着た長髪の選手は、坊主頭の選手兼監督に背中を押され、サポーターたちのもとへ歩みます。
30分ほど前、ゴールを決めた時と同じように喜びを見せることなく、うつむきながら、ゆっくりと。
辛い時苦しい時悔しい時嬉しい時…どんな時もいっしょに歩んできたサポーターたち。
あいさつをして、握手をかわし、今のチームメイトたちのもとへと戻っていきました。
「あの時の様子を“ふるさとたっぷりTV局”さんが密着して下さっていたんですよね。ありがたい限りです」
天文館のカフェでゆっくりとお茶を飲んでいたスーツ姿の辻勇人さんは、記憶を掘り起こしながら話をしてくれました。
現在は不動産会社に勤務しながら女子サッカークラブ「モゼーラ鹿児島」や国体少年女子で指導する辻勇人さん。
鹿児島ユナイテッドFCでは2014シーズンに現役を引退して、スクールリーダーを務めて…ユナイテッドの前身クラブでも活躍した、なによりとにかく愛された選手でした。
ということで今回はできるだけ手短にを心がけますが笑、歴史の時間です。
これが将来のプロサッカー選手…?
辻勇人さんは神村学園高等部の男子サッカー部1期生。
出身である南さつま市の万世サッカースポーツ少年団の後輩にはかの大迫勇也選手(現ヴィッセル神戸)がいて…と表現すると後にサッカー選手になるのは必然に映りますが、全然そうではなく。
中学校時代はサッカー部でしたが「部室でカードゲームばっかり。部員は11人で、今みたいに複数校の合同チームもなかったし、試合ができるぎりぎり」というレベル。
顧問の先生に「神村学園に男子サッカー部ができるみたいだから体験練習会に行ってみれば?」と言われるままチームメイトと参加してみると「みんなサッカーのシャツを着ているのに自分だけ体操服笑」。
当然特待も推薦ももらえませんが、入学入部はできました。
「これ嘘だって言われるかもしれないですけど」
と前置きして入部してからのエピソードを明かしてくれます。
「“インサイドで蹴れ”って監督に言われるんですけど、インサイドがどこにあるのか分からなくて」
答えは内くるぶしの下辺り。
「それから逆足(利き足の反対)でのPK練習があったんですけど、GKまで届かなくて。本当なんですよ!」
辻さんは大笑いしています。
鹿児島の高校サッカーは鹿児島実業高校の一強から、鹿児島城西高校との二強になりつつあり…永畑祐樹、五領淳樹、鮫島翼を擁した神村学園が旋風を起こし、台頭するのはもう少し後のこと。
とはいえ野球部はひと足先に春の甲子園で準優勝している神村学園高等部。
辻さんも1期生からレベルの高いサッカー部で着実に力をつけていきました。
卒業後は地元にある建設用機材のレンタル会社に就職して、同時に鹿児島県社会人サッカーリーグ1部リーグのKFCフェローズで1年間プレーします。そこで「もっとレベルの高いところでサッカーをしたい」という熱が高まるまま、辻さんが加入したのがヴォルカ鹿児島
「鹿児島からJリーグ」を目指して活動している九州リーグのクラブですが、プロサッカー選手どうこうではなく「とにかく目の前のサッカー」に全力で向き合うために辻さんはヴォルカを選びました。
赤の背番号9を背負って
辻さんが加入した2006年当時、ヴォルカ鹿児島はもっとも苦しい時代だったかもしれません。
横浜フリューゲルスなどで活躍した鴨池出身の前田浩二さんたちを迎えて全国リーグである日本フットボールリーグ(JFL)さらにその先にあるJリーグを目指した時期もありましたが、経営面の課題を抱え、まず存続することを考えなければならない時代。
九州リーグにはV・ファーレン長崎、ニューウェーブ北九州(現在はギラヴァンツ北九州)のような強豪が並びます。
数少ない光明は「キング」と呼ばれ、13シーズンで9度の九州リーグ得点王に輝く西眞一さんでしたが、その西さんも30代なかばになり、キャリアの終盤を迎えていました。
背番号25のFW辻さんは、途中出場やエントリー外が多く、他のポジションでもプレーします。
チームは2006シーズン4位、2007シーズン5位と優勝争いに加わることもできず、そんな状況でも1試合1得点以上のペースでゴールを重ね続けた西さんは、2年連続9度目の得点王に輝いた2007シーズンをもって現役を引退してコーチに転身しました。
「西さんは身体が大きいわけでもなく、足が速いわけでもなく、特別上手いわけでもない。それでもあれだけのゴールを決められる。“ワンタッチゴール”を西さんから学びましたね」
その頃から辻さんはより本気で…狂気に近い本気でサッカーに向き合うようになります。
日中は仕事。
終わったら練習場として使っていた鹿児島工業高校や、土だった鴨池補助競技場まで片道1時間かけて移動して夜にトレーニング。
終わったらジムで筋トレ。
筋トレが終わったら軽くシャワーを浴びて少し寝る。
起きたら車で1時間かけて帰宅。
洗濯して就寝。
ついには信号待ちの時間すら惜しくなり、色々工夫してプチ車内トレーニングをはじめる始末。
「長崎とかは昼の練習で真っ黒に日焼けしていて、こっちは夜の練習だから真っ白で。その差を埋めるためには生半可な努力じゃいけないって思って」
2008シーズン、チームはまたも5位に終わり、辻さんも中心選手とは程遠い状況。
ところが「とても言えるような状況じゃなかったし、なんでそうしたのか分からないんですけど。自分を追い込みたかったような」と苦笑いしますが、2009シーズンを迎えるにあたって辻さんは、西さんが引退して空いていた背番号9をみずから求めて、背負うことになります。
鹿児島にとって希望の象徴ともいうべき背番号9。
控えFWだった辻勇人がその9番を背負い…2009シーズン、爆発します。
開幕スタメンを勝ち取るといきなり2ゴール。
前後左右に走り回りながらゴール前の勝負強さを活かし、足で頭でコンスタントにゴールを決め続け、14試合16得点で西さん以来となる九州リーグ得点王。
チームも首位争いを繰り広げた末のリーグ2位で、JFL昇格をかけた全国地域サッカーリーグ決勝大会(全国地域チャンピオンズリーグ)に出場。
翌2010シーズンは怪我やチーム戦術の影響もあってベンチに座ることが増えましたが、それでも13試合11得点のチーム得点王で、背番号9にふさわしい成績を残しました。
そして5シーズンを過ごした環境を変えることを考えはじめていて、上のカテゴリーからも練習参加(を通した入団テスト)の話があり、でも鹿児島から離れることにも抵抗があり「これからどうしようか?」と考えていた11月の指宿。
たまたま足を運んだ鹿児島県社会人サッカーリーグでは、その年「鹿児島からJリーグを目指す」クラブとして発足していたFC KAGOSHIMAが、全勝優勝を決めていました。
辻さんの前で選手たちは数十人のサポーター(というか選手の保護者や友人や子どもたちがほとんど)にあいさつをして…
坊主頭の選手兼監督がひとりひとりと握手をかわして、応援のお礼を伝えている姿が心をとらえました。
「この人とやりたい」
当時FC KAGOSHIMA(以下、当時に倣って「FCK」と表記)は九州リーグ昇格をかけた各県リーグ決勝大会を前にしたところであり、規定によりその大会に辻さんはプレーできないし、カテゴリーが下がる可能性もあります。
なにより相手は同じ「鹿児島からJリーグ」を掲げた後発のライバルクラブであり、存在自体が鹿児島サッカー界をざわつかせる存在でした。
「ものすごく考えましたよ…言葉でさらっと言ってますけど」
たくさんのことを覚悟したうえで、辻さんは東京帰りの公認会計士である徳重剛と、田上裕選手兼監督が率いるFCKへ移籍を決断しました。
白・水色の18番として
辻さんの来シーズン加入が決まっているFCKは、九州各県リーグ決勝大会で優勝して、2011シーズンをヴォルカ鹿児島と同じ九州リーグで闘うことになります。
サガン鳥栖から加入したFW谷口堅三さんと2トップを組んだ辻さん。
しかし谷口さんが開幕戦からゴールを量産していくのに対して、なかなかゴール前で仕事をする機会に恵まれません。
第8節、宮崎県西都市でついに迎えたヴォルカとの直接対決はベンチスタート。
谷口さんの先制点でリードしながらも劣勢が続く後半22分、ピッチに送り込まれます。
後半26分、スルーパスに裏へ抜けた辻さんは、迫りくるGK植田峻佑選手(現テゲバジャーロ宮崎)の頭上を浮かせたキックで追加点を決めて…FCKのサポーターが大歓声をあげて、チームメイトの祝福が駆け寄るなか、静かにたたずんでいました。
そして試合終了後、冒頭のヴォルカサポーターとの場面につながっていきます。
どんな事情があってもサポーターを愛し、サポーターに愛される辻勇人でした。
結局このシーズンはHOYO FC(現ヴェルスパ大分)が九州リーグを制し、そのまま地域決勝大会でも勝ち進んでJFL昇格を決めます。
翌2012シーズンは早々とFCKとヴォルカが抜け出し、完全な二強独走。
シーズン前半最後にふれあいスポーツランドで行われた直接対決は2-0でヴォルカが勝利して首位で折り返します。
次の直接対決はシーズン最後の18節、ここまでお互いが連勝街道を突き進むと思われていた夏、当時の辻さんはぽつりとつぶやきました。
「(九州リーグの強豪社会人チーム)新日鐵大分とか三菱重工長崎とか、優勝はないかもしれないです。でも一発勝負で僕たちを喰う力はあるんですよ。ヴォルカの時もそれで優勝を逃しました」
その言葉通り16節、ヴォルカが新日鐵大分に敗れ、順位が入れ替わり…島原で迎えた最終節は「引き分け以上で優勝」のアドバンテージを生かしたFCKが、手堅い守備からの速攻で2-0の勝利。
鹿児島県勢としてヴォルカの前身、鹿児島教員団による1986年以来の九州リーグ優勝を果たします。
FCKでは徐々にサイドバックの起用も増え、ゴール前でのプレーから遠ざかり、多くの葛藤を抱える辻さんでしたが、純粋に優勝を喜び、2009年以来となる地域決勝大会に視線を向けていました。
4チームのリーグ戦で行われる1次リーグでは「自分たちが勝ち点3を取ることも大事だけど、相手に勝ち点3を与えないことも重要」と前回大会経験者として気を引き締める辻さん。
しかし初戦は強力な戦力をそろえるSC相模原に敗れ、後がない2試合目は辻さんもゴールを決めて鈴鹿ランポーレ(現アトレチコ鈴鹿クラブ)に勝利するも、最後はファジアーノ岡山の育成チーム「ネクスト」に敗れ、敗退が決まります。
敗戦後、辻さんはチームメイトからも距離を置いてひとりで遠くを眺めていました。
「ヴォルカのチームメイトとか職員だった湯脇さんとかスポンサーさんとかサポーターとか、先に退団したFCの選手とか、もっと言えば教員団とか、自分たちよりもっとアマチュアだった時代からがんばってきた人たちの思いも勝手に代表していると思っていたので、その人たちのことを考えながら“まだダメなのか”って」
2012年末にはヴォルカとFCKが統合するかもしれないという話が持ち上がり、両方のクラブでプレー経験のある辻さんは「統合したほうが良い」とは思いましたが、結局このタイミングでの統合はなく、翌シーズンも2クラブが九州リーグを闘うことになります。
出場機会は限定されつつあった辻さんですが「色々なことを覚悟してきたし、別にいい思いをするためにヴォルカから移籍したわけではないし」と、迷うことなくFCKでの再挑戦となった2013シーズン。
またもヴォルカとの二強独走となったリーグ戦は、またも前半最終となる9節でヴォルカが勝利、逆襲の機会をうかがうFCKでしたが16節に新日鐵大分とのアウェイ戦を2-3で落とすと、そのままヴォルカが優勝を決めました。
それでも複雑なレギュレーションとめぐり合わせにより、本来優勝チームしか出られない地域決勝大会の出場権をFCKも獲得します。
ヴォルカ鹿児島は1次ラウンドを3戦全勝で突破。
FCKは1勝1敗で、4点差で勝利すれば突破できる、という無茶苦茶な状況で最終節のFC KOREA戦を迎えました。
前半0-0で迎えた後半、無茶苦茶が現実のものになりつつあります。
ぬかるんだピッチ上にはX JAPANの「紅」を元にしたチャントが響き、オレンジ色のシャツを来たFCKのゴールが次々と決まっていって3-0と迫り、、、後半25分、、、中盤でクリアボールを収めた辻さんは、FC KOREAが前がかりになってがら空きになっていた右サイドへスルーパスを送り、パスを受けた先崎勝也さんが長い脚から上げたクロスを、、、ゴール前で待つ栗山裕貴さんはGK朴一圭選手の逆をつくヘディングで合わせて、、、ポストに当たって、跳ね返って、、、ため息が漏れるいとまもなく、、、辻さんが左足で押し込んで、、、4-0。
奇跡が、結実しました。
「逆足のPKがGKにも届かなった自分が左足で決めたんですよ! 西さんから学んだワンタッチゴールで!」
キック力関係ないやん笑ですが、夏には統合することの決まっていた両鹿児島の勝ち上がりによって、昇格を果たした新クラブ「鹿児島ユナイテッドFC」はJFLからスタートすることが決まりました。
「よく優勝とかすると監督や選手ってまず“おめでとうございます”っていうじゃないですか。あのままです。昇格とか優勝を喜んでくれる人たちを見ていると“おめでとうございます”って、それがまず出てくるんですよね」
1年での引退と新しい道へ
ヴォルカ鹿児島とFC KAGOSHIMA、さらにJリーグ経験者も加わって出発した鹿児島ユナイテッドFC。
ヴォルカ時代は夜の練習、FCK時代は練習場所がなくて早朝に土手のランニング、を経てきた辻さんにとっては人工芝でも県立サッカー・ラグビー場という安定して使える場所があること、フィジカルコーチやトレーナーがいること、チームメイトもレベルが高くて練習の質は高く、ロッカールームもある環境は本当に恵まれたものでした。
28歳の年を迎えていましたが、まだまだ自分がうまくなっていくことが実感できました。
トレーニングが終わった後は、FCK時代から運営しているサッカースクールで子どもたちを指導。
FCK時代から田上裕たちとともに「子どもたちは勝手にうまくなっていく。それよりもあいさつをきちんとするとか荷物や靴を並べることを教えることが大事」という方針で、保護者の満足度も高い人気スクールで、さらにFCKとユナイテッド初代監督を務めた大久保毅さんから「トレーニングメニューの組み方、子どもたちへの声のかけ方を学んだ」というように後進の育成にも精力的です。
シーズン前半はなかなか出場機会を得られませんでしたが、1stステージ最終節MIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀FC)戦でベンチ入りから初出場。
2ndステージ第1節のヴァンラーレ八戸戦はスタメン、第2節のレノファ山口FC戦も途中出場します。
傍目には選手としてこれからが勝負、と思われた時期、しかし、辻さんはその頃に現役引退を決めていました。
「自分よりも金銭的な条件が良くないって分かっている選手がいたんですけど、その選手がトレーニング前に誰よりも早く来て、グラウンドを走って体幹トレーニングをやっている姿を見て“俺もうプロできないな、俺よりその選手の方がその資格があるな”って。別に負けたっていう感じじゃないんですけど、自分の選手としての熱量を考えると、与えられた環境に満足してしまっていたし、もっとふさわしい選手がいるなって」
その頃サッカースクールでの指導にもやりがいを見出していて、プロサッカー選手として「やらなければならないこと」に手を抜いているつもりはまったくありませんでしたが、指導を「やりたいこと」と捉えている自分にも気づいていました。
二十歳すぎの頃、試合でゴールを決めるために狂おしいほどの熱量に包まれていた頃の自分を知るからこそ、感じられたものかもしれません。
「彼もそんなに試合に出ていたわけじゃないんですけど、でもギラギラしていて。自分は“やりたいこと”と“やらなければならないこと”の狭間にいて。あともうひとつ引退を決めたのは、きちんとファンにお別れのあいさつをしたいなっていうのがあります」
2014シーズンのホーム最終戦、サポーターの前で胴上げされ、トラメガであいさつをして、選手生活に区切りをつけて、鹿児島ユナイテッドFCのスクール部門を統括する立場に就きました。
みんなに喜んで欲しい。それだけ。
2年間、辻さんはユナイテッドのスクールコーチとして県内各地をまわって子どもたちとふれあって、時には種子島屋久島から与論島まで離島を順番にまわっていって、別の現場ではいきなり300人もの子どもたちの前に連れて行かれてサッカー教室をして、メディア関係の仕事もして、小中学校で立志式の講演や職業講話をして、、、どことなく応援リーダーの原型のようです笑
ユナイテッドを離れてからは、最初にかつ一番熱烈にさそってくれた今の不動産会社に就職。
18時までは店舗開発の仕事をして、夜は女子サッカークラブ「モゼーラ鹿児島」やサッカースクールで指導をして、と忙しい生活を送っています。
2020年に行われたユナイテッドOBによる「レジェンドマッチ」では、軽快に貪欲にゴールを目指し続ける変わらない姿が見られました。
J2に再昇格したここまでのユナイテッドの闘いぶりには「J3の頃から積み上げたものをJ2でもしっかり発揮しているし、センターラインの補強がしっかりハマっていて期待できます。すごく体力を使うサッカーだから長期戦でやっていけるのか気になるところもあるけど、大島監督もそこはきちんと計算しているでしょう」と論理的かつ愛をもって古巣を見つめています。
地元開催となった昨年の国体では鹿児島少年女子サッカーのスタッフとして決勝進出に導いたように、指導者としての実績も着実に積み上がっています。
サラリーマンとしてもサッカーの指導者としても「ただ目の前のこと」に全力。
37歳になった辻勇人さんは今、10年近く前になってしまったサッカー選手としての日々をどのようにとらえているのでしょうか?
「サッカーで色んな人に出会えたのは、もうすごくありがたいですよね。僕は勉強できたわけでもないし、全部サッカーとかがつないでくれた縁。今の仕事もそうだし、チームメイトとか指導者とか、サッカーというコミュニティで色んな人とつながることができました。それを僕が大好きな鹿児島でできた。今もこうやって昔話をすることもあれば、サッカーがきっかけで仕事になることもあるんです。選手時代に自分がつちかってきたものはすごく自信になっていますね」
サッカー選手とは試合に出て、活躍してなんぼ。
ただ辻さんの場合は、活躍したいに加えてもうひとつの思いもありました。
「誰かの期待に応えたいのが一番あるんじゃないですか。サッカーだって自分が点を取ったら喜んでくれる人がいて、チームが勝ったら笑ってくれる人がいて。今もそうかもしれません。誰からも必要とされてなかったら、自分も嬉しくないし。だから仕事でも指導者でもプレッシャーとか今でもあるんだけど、やっぱり人の想いに応えたい、誰かに喜んでもらいたい。それだけですね」
現役時代とにかく愛された男は、本質的なところはやはり変わることなく、辻勇人であり続けていました。
それでは鹿児島に住み続けてずっとユナイテッドをそばで見てきた今、改めてユナイテッドに何を求めるのでしょうか?
「試合には何千人って方が来て、日常ではステッカーを貼った車を見ることができて、飲んでいても会話の中でああだったこうだったと話題になっていて、試合結果がどの局でもニュースで出てきて。もうスタジアム問題すらも、僕にしたら愛おしく感じるんですよ。もちろん、まだ”問題”だし喜ばしいことではないんですけど。ただなんか、そういう姿が想像できていなかった。それだけ話題性になるというか。そういうところまでこのクラブが大きくなったわけじゃないですか。そこには徳重さん湯脇さん東さん(田上)裕さん武宮さんたちがいるし。理想っていうか綺麗に言うと、例えばJ1に昇格するとか、天皇杯で優勝するとかが一番綺麗なんだろうけど。それも大事なことなんでしょうけど、なんか去年で結構満足したところはあるんです。でもやっぱりスタジアムに行った子どもたちに憧れに思われる存在では常にあって欲しいですよね」
自身も3人の子どもを持つ父親としてスタジアムに通う身でもあるから、やはり子どもたちの目線は意識するところがあるようです。
そして最後に辻勇人はこれからどうなっていきたいのかを聞くと、ずっと目の前のことに全力で取り組んできた男は「分からないです、だって10年前、鹿児島ユナイテッドFCがこんなになっているって想像できましたか?」と笑顔で、そして取材中あえてこちらからは話題にするのを避けてきた旧友の名前を出しました。
「だって10年前、田上裕が髪を伸ばしているのが想像できましたか?」
「でも僕は良いと思いますよ。ずっと死ぬまで坊主頭っていうのも厳しいでしょう笑」
最後までとことん対面する人を楽しませる辻勇人でした。
田上さん、伸ばした髪に「否定」でも「どちらでもいい」でもなく、肯定派の一票が入りました笑