【7月23日マッチデープログラム】 KUFC MATCHDAY PROGRAM 2023 vol.10
鹿児島ユナイテッドFCのマッチデープログラム電子版。
今回は7月23日に行われる2023明治安田生命J3リーグ第19節、鹿児島ユナイテッドFC vs 愛媛FCのマッチデープログラムです。
日程表・順位表・テキスト速報
前回までの振り返り
2023年7月9日(日)2023明治安田生命J3リーグ第17節
vs 福島ユナイテッドFC 会場:白波スタジアム(鹿児島県立鴨池陸上競技場)
カターレ富山との上位直接対決を制した鹿児島は7月9日、ホーム鴨池に福島ユナイテッドFCを迎える。
6分、スローインのボールをペナルティエリア内右ポケットで受けたロメロフランクがキープして背後の木村祐志にパス。
木村が打ったシュートのこぼれ球に反応したロメロが豪快に蹴り込んで先制する。
15分、福島のコーナーキックをニアとGKの前で合わされ1-1の同点。
43分、圓道将良が上げたクロスからPKを奪取。しかしGKの動きを見極めた藤本憲明のシュートはポストの外側を通り過ぎる。
56分、福島陣内に送り込んだボールを福島守備陣がマイボールにしてつなごうとする。そのボールにいち早く反応した渡邉英祐がそのままシュートしたボールがサイドネットに包まれて、再び鹿児島が勝ち越す。
福島にも決定的な場面が訪れるがGK松山健太を中心に2点目は許さない。
63分、左サイドでロメロがボールを奪い、鈴木翔大がキープして右サイドから上がってきた野嶽寛也にパス。
野嶽が打ったミドルシュートがこぼれたところを詰めていたロメロが福島守備陣の徹底したマークを受けながらも後方に戻す。
中原秀人が合わせて追加点。
鹿児島が3-1で勝利した。
2023年7月16日(日)2023明治安田生命J3リーグ第18節
vs アスルクラロ沼津 会場:愛鷹広域公園多目的競技場(静岡県沼津市)
7月16日は徐々に順位を伸ばしているアスルクラロ沼津とのアウェイ戦。
一進一退の序盤、17分に鹿児島はコーナーキックのこぼれ球を圓道がダイレクトで打った強烈なシュートはGKとポストに阻まれて先制点を奪えない。
37分、鹿児島陣内まで攻め込んだ沼津の攻撃を遮るが、こぼれたボールを沼津がさらい、そのままワンツーで抜け出し、GKとの1対1を冷静に決められ先制を許す。
その後も沼津の圧力を受ける時間が続く。
後半に入ると途中出場の武星弥たちを中心に反撃に出るがゴールに至らない。
62分、沼津ペナルティエリア前でのパスをカットされると、そのまま沼津の速攻から強烈なシュートが決まって0-2。
2点を追う鹿児島は、端戸仁や河辺駿太郎たちを投入するが、最後まで1点を奪うことができないまま0-2。
約3ヶ月ぶりにアウェイで敗戦した。
コラム「鹿児島をもっとひとつに。vol.10(Total vol.22)」
若き韓国人FWはどんな時も前を向いて鹿児島で日本で生きてきた
福島ユナイテッドFCに勝利した後、ダウンをしようとしていた野嶽寛也選手は観客席の「彼」に気づくと「ヒョンさん?」と少し驚きながら微笑みました。
そして2人は短い間でしたが言葉をかわします。
「彼」の名前は曺 亨仁(チョ ヒョンイン)、みんなからは「ヒョン」と呼ばれています。
びわこ成蹊スポーツ大学を卒業後は1シーズン、JFLのMIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀FC)でプレーした韓国籍選手です。
そして2015シーズンに発足した鹿児島ユナイテッドFC U-18の1期生であり、鹿児島情報高校で3年間を過ごした留学生でもあります。
ちなみにU-18からはじめてトップチーム昇格を果たした野嶽選手は2期生。
やがて練習試合で何度か対戦した鹿児島城西高校出身の同い年、泉森涼太選手もヒョンに気づきました。
福島戦の数日後、ヒョンは電話越しに自分のサッカー生活や鹿児島のことをたくさん話してくれました。
流ちょうな日本語で。
言われなければ日本人と判別できないほどに流ちょうな日本語で。
日本へ、けれど、試合には出られなかった
ヒョンは韓国ソウルの生まれ。
小さい頃からサッカーをしていて、とにかくサッカーが好きで、とにかく点を取ることに全部のエネルギーを注ぐタイプの選手でした。
中学時代もかなりいいところまではいっていましたが、強豪クラブや強豪高校の選考には漏れてしまいます。
「僕は身体が小さかったですから」
サッカーをする場を探していたヒョンは、日本の高校に留学していた先輩から「こっちは環境が整っているよ」と言われ、日本という選択肢を考えるようになります。
エージェントとともに日本へ渡り、色々なところに練習参加をして、鹿児島の指導者と出会って。
その指導者が、鹿児島ユナイテッドFC初代監督、大久保毅さん。
大久保さんはU-18の立ち上げとともにアカデミーダイレクター兼任で監督に就任したばかりでしたが、いっしょにランニングをしたり、積極的に教えてくれたり、できるまで付き添おうとする姿勢に憧れ、鹿児島ユナイテッドFC U-18への入団を決め、同じく韓国からチョ チェヒョンと2人で鹿児島情報高校に入学しました。
ほとんど日本語をしゃべることができず、通訳がいるわけでもないなかでの生活です。
しかしFIFAが定めたルールにより、外国籍の選手は満18歳になるまで公式戦のメンバーとして登録することができません。
「試合に出られないってサッカー選手にとっては致命的な弱点じゃないですか。でも18歳になるまで試合に出られないのは僕だけじゃなくて、韓国から海外に行った他の選手たちもこのルールを受け入れているので、練習をがんばろうと考え直して…がんばりましたね。練習試合とか組ませてもらっていたので、そこまでパフォーマンスが落ちることはなかったです。
当時のU-18は1年生が8人で、ヒョンたちは登録ができないので6人だけ。
そこにU-15の選手たちを加えて高校生のリーグに参戦しますが、なかなか勝つことはできません。
そんな同級生を見守るしかできない日々。
それでもヒョンは日本での生活に充実していました。
「僕小学4年生からサッカーをはじめてずっと寮生活なんですね。中学もそうで、高校も寮で、親とはあまりいっしょに生活したことがなくて僕自身でやらないといけなかったので、とりあえず楽しく生きようっていうのが一番でした。サッカーも、学校生活も、日本語を学ぶことも、全部僕は上を目指すためじゃなくて、楽しければ。そんな性格。だから3年間耐えられたのかもしれません」
チームメイトやクラスメイトはやさしく、みんな仲の良かった1期生のなかでも特に藤田翔輝はこまめに話しかけてくれて、日本語も含めて色々と教えてくれました。
「今も鹿児島に行ったら藤田のお母さんとも会うくらい、家族での付き合いをしています。緒方はおとなしいけど笑。いいやつでした」
はじめて日本に来たときはなにもしゃべれなかった少年は、1年とたたないうちにたくさんの友だちに囲まれ、日本語で意思疎通が図れるようになっていました。
そして2年生になると、たくさんの1年生がU-18に入ってきます。
そのなかに、野嶽寛也がいました。
「寛也はまわりが見えて戦術理解が高くて、うまかったです。後ろからあっち行ってとか、こっちを切りながら行ってとか、そういう指示を出してくれて。僕はサッカーをまったく知らなくて、正直に言うと点取ることだけしか考えてなかったです。FWなら基本として内を締めてから外に向けて限定するみたいなことがあったのを、高校ではじめて教えてもらったんですけど、守備は難しくて慣れていなかったんですよね。僕が大学に行った次の年に寛也がユナイテッドのトップチームに決まったときはそこの差やなって思ったんですよね」
来日3年目の8月、ヒョンは18歳になり、ついに県3部リーグの公式戦に出場することができました。
対戦相手は奇しくも自分たちが通う鹿児島情報高校サッカー部。
「今まで僕を使いたくても使えなかった大久保さんのためにも」と気合の入ったヒョンは、開始早々に先制ゴールを決めて、そこからも緩むことなくボールを持ったらためらうことなく相手ゴールへ向けて突撃し、次々とシュートを決めていきます。
極めつけは、相手GKにコースを消されたところから、利き足ではない右足のアウトサイドでカーブをかけて枠ギリギリのコースに決めた5点目(チームのではなくヒョン単独で)。
観戦に来ていたサポーターから「チートじゃん」という感嘆の声がもれました。
「あの頃から(クラブ代表の)徳重さんとか学校の同級生とかみんな応援に来てくれていて感謝です」
数ヶ月しかなかった公式戦を終え、チームを県2部リーグへ昇格させたのを最後にU-18での3年間を終え、鹿児島情報高校を卒業したヒョンはびわこ成蹊スポーツ大学へ進学しました。
「何回か練習参加させてもらって、自信があって楽しくプレーできたと思います。そしたら監督が希望してくれて」
大久保さんの後継でU-18の監督に就任した、クラブOBでもある新中剛史さん(現都城東高校サッカー部監督)の母校でもあり、そういった縁もあっての進学でした。
滋賀県での5年間
びわこ成蹊スポーツ大学は、Jリーグに多くの選手を輩出している強豪です。
「J1の下部組織でやっていた先輩がたくさんいたし、強豪高校出身の先輩もいたし、ものすごく強くて、それから僕、鹿児島では先輩もいなかったし。“こんな人たちとサッカーをしたらどうなるんだろう”って思ったけど、とりあえず良いパフォーマンスを見せようと。僕は足速いし、点も取れるっていうのは自覚していたから、その良さを出すように最初の1年間ものすごくがんばりました」
1年生の頃から途中出場が中心とはいえ、しっかり出場機会を得ていたヒョン。
しかし2年生になるとBチームでの活動が中心になり、3年生になるとコロナ禍で試合自体がほとんど行われず。
「4年生になってやっとチャンスをつかめて総理大臣杯も出られたし、最後のインカレも早稲田大学にPKで勝ってベスト8までいけたし、すごく印象に残る1年でしたね。すごいすごい楽しかったです」
同期がJリーグのクラブへの加入が決まる中、ヒョンは結果的にどこのJクラブとの契約にも至ることはできませんでした。
「まわりでやってた友達が何人かプロに行っているのを見ると、やっぱり俺もやれていたんだとは思いますけど。でもプロを目指すために、めちゃくちゃがんばっている人たちもすごいんですけど、それより自分は楽しい思い出を作りたいって思っているんです。高校生の頃から全部上をめざすためにじゃなくて楽しければいい、プロはどうやったら行けるのか?とかはあまり考えていない。親はすごく期待してくれていて上に行って欲しいっていうのは分かるんだけど、僕は点を取った時の喜びが大きくて嬉しくて心を熱くしてくれたからサッカーをはじめたわけだし、上には行けたら行く、という感じでしたね」
ヒョンが努力嫌いというわけではありません。
高校3年間で、左利きだったのを猛練習して左右遜色なく蹴れるように努力してきたし、日本語もしっかりと学んできたし、トレーニング熱心でもあります。
ただ「プロサッカー選手になる」という目標から逆算して、足りないところを埋めていくタイプではなかったということでしょう。
そしてたった1本のシュートが決まるか決まらないか、人と人とのちょっとしためぐり合わせ、怪我や病気など、自身の能力や必然性だけで語るにはあまりにも様々な要素でサッカー人の運命は別れていくものです。
しかし明るく純粋に一生懸命にサッカーをプレーするところが、観る人の心になにか熱いものを届けてくれるヒョンの魅力でもあります。
それはまちがいのないことです。
最終的にヒョンは同じ滋賀県で、アマチュアリーグの最高峰JFLに所属するMIOびわこ滋賀(現レイラック滋賀)で2022シーズンをプレーすることになります。
「高校大学とずっとFWだったんです。でも当時の滋賀の監督さんが左利きの右サイドハーフの選手が欲しいと言ってくれて行きました。正直守備は苦手で、それでプロに行けなかったと思うんですけど。大学でも途中からジョーカー的に使われていたし、滋賀でやれるだけやってみようと思ったら、すごくいいプレーができて、ゴールも決められたんです」
開幕から4試合2得点と序盤は活躍しますが、そこからヒョンは負傷の影響などもあり、出場機会とゴールを積み重ねることはできずシーズンを終えます。
そして2022シーズン限りで退団。
多くの関係者やサポーターに惜しまれながらの1シーズンでの退団は、韓国ならではの事情がありました。
故郷へ、そしていつかまた日本へ、サッカー選手として
「僕は兵役を終えていないから、今年の10月までしかビザが伸びなかったんです。それでシーズン途中で契約解除して出ていくのも良くないと思って、クラブもこれからチーム名とか変わるなかで残って欲しいと言われていたけど、両親とも相談して、一旦区切りをつけました」
ヒョンはこれから1年半、兵役に就くことになっています。
そこにはキャリアを中断させられる悲壮感…などはありませんでした。
「そこでひとつ思ったことがあるんです。プロサッカー選手になるって簡単な目標ではありません。今までの日本のサッカー界で僕はプロではなかったかもしれませんけど、高校生の頃から留学してきて、日本生まれではない韓国人としてがんばってきて、大学生活までやってきて、社会人チームでプレーしました。そこから兵役を終えて、また帰ってくるパターンって誰一人いないんですよね」
兵役中は厳しく肉体を鍛えるから、フィジカル的には問題ないでしょうし、多くの韓国人サッカー選手がそうであるように、また選手としても活躍できることでしょう。
その帰る先はどこになるのでしょうか?
「いや、分かんないですね。でもどこでも、僕はレベルが低くても高くても、どこでやっても、どんなポジションでも、サッカーができることに感謝して、チーム全員で楽しくプレーしたいっていう思いがありまして。だからどこでもいいんです。また日本でサッカーができれば」
ヒョンは日本をとことん愛してくれています。
今年7月にまた鹿児島まで来たのは関西で友人の結婚式があったためで、福岡を経由して時間的に鹿児島vs福島も観に行けるためでした。
前半途中からの観戦でしたが、U-18時代はボランチだった後輩は、右サイドバックでフル出場して、3点目にからみました。
「寛也は高校時代から戦術理解も技術も高い選手でしたから。今のサッカーは偽サイドバックとしてボランチ周辺でプレーするサイドバックはたくさんいるし、でもあいつも5年目ですよね。結果を出さないといけないですけど、絶対やれると思います」
多くの選手が口をそろえるように、ヒョンもまた「野嶽寛也はこんなもんじゃない」という期待がありました。
そしてユナイテッドへ期待することも語ってくれました。
「それはJ1ですよね。無理じゃないので。この人生にとって無理なんてないんです。無理って言葉はなくて、やればやるほど結果が出てくるし、ただ鹿児島はそれが遅れているだけなんじゃないかなって。初めて僕が来た時はJFLでした。でもこの9年間でここまで来たってことは、行けます」
ヒョンはもう一度、力強く言い切りました。
「絶対に行けます」
彼にとって鹿児島ですごした3年間、選手としては雌伏の時でしたが、鹿児島への愛と感謝は尽きることがありません。
サッカー選手としても高いレベルにいましたが、何よりこの逆境にもへこたれない人間性こそが、U-18の立ち上げにとって幸福な邂逅だったと言えるのではないでしょうか。
ヒョンは今でも年に1回は鹿児島を訪れ、藤田緒方のU-18同期生といっしょに個サルやソサイチでボールを蹴ったりしていますが、2人にはもっと指導者として成長することを期待しています。
「いつか2人がU-15とかU-18のコーチや監督になったらすごいですよね。そうしたら自分も入れてもらおうかな笑。僕の同期はみんなサッカーやめて、僕が最後に残ったんですけど、僕はまだ辞めていないですから。みんなの想いも背負って、また復活することを目標にしているので。だからみんなに言っておきたいですね。また帰ってきたらサッカーしようぜって」
穏やかで優しくて明るくて、でもヒョンの奥底ではサッカーへの情熱がまだまだ燃えていて、なにより希望にあふれていました。
カテゴリーなんて関係なく、自分らしくサッカーを続けてくれる人が1人でも多いことほど、サッカー界にとって大切なことはないのかもしれません。
2025シーズン以降にヒョンがどんなプレーをしてくれるのか、楽しみに待ちましょう。